異文化のなかで育った少年が、世界の最前線でリーダーになるまで ―次世代を担う後輩たちへのメッセージ―
2025年9月2日
特集

異文化のなかで育った少年が、世界の最前線でリーダーになるまで ―次世代を担う後輩たちへのメッセージ―

 

ソニーのV字回復をけん引した元最高経営責任者(CEO)であり、現在は一般社団法人プロジェクト希望の代表理事を務める平井一夫氏は、まだ「帰国子女」が珍しかった196070 年代に、アメリカ・ニューヨークで小学1年から4年生まで、カナダ・トロントで中学時代を過ごした元帰国子女。当時の異文化体験は、その後の人生や考え方に大きな影響を与えているという。
 

このたび、公益財団法人海外子女教育振興財団理事長の綿引宏行がホストとなり、「異文化で育つとはどういうことなのか」について、お話を伺った。

 

 

<プロフィール>
 

平井 一夫(ひらい かずお)
 

1960年東京生まれ。幼少時代父の転勤で海外生活を送る。CBS・ソニー(現 ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社。95年にソニー・コンピュータエンタテインメント・アメリカに転身、同社の北米プレイステーション事業を大きく拡大させるその後、同社や㈱ソニー・コンピューターエンタテインメントSCEI、現 ソニー・インタラクティブエンタテインメント)、ソニー㈱(現ソニーグループ㈱)にてトップを担う。代表執行役社長兼CEO、取締役を経て18会長。19年より24年までソニーグループシニアアドバイザーを歴任21年、子どもたちの未来創造のきっかけとなる感動体験をつくるプロジェクトを始動し、(一社)プロジェクト希望を設立代表理事を務める

 

 

綿引 宏行(わたびき ひろゆき)
 

1957年東京・浅草生まれ。旧東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険))に入社し、情報産業や国家プロジェクトを担当。13年より同社常務取締役、16年退任、19年まで東京海上日動HRAHuman Resources Academy)社長。2009から米国東京海上社長として赴任、ニューヨーク教育審議会副会長も務めた。19年に(公財)海外子女教育振興財団の理事、20から理事長。現在、中央教育審議会臨時委員、横浜市教育委員会委員を務める

 

 

大人の責任

綿引 平井さんのメッセージを読んでもらいたい人たちは、日本の子どもたちをはじめ世界中にいます

日本人学校補習授業に行ってる子どもおよそ4万人現地校やインターナショナルスクール通っているども23万人ぐらい、そのうち半分ぐらいは日本人学校や補習授業校があるのに行ってないという子どもたちで、日本人学校や補習授業校がないから通えないという子どもは約56いるのではないでしょうか。

 平井さんはアメリカで幼少期を過ごされていますが、親の立場でもアメリカでの生活を経験されていらっしゃいますね。

 

平井 最初に家族を連れてアメリカ行ったのは1990代で、当然日本に帰るつもりでいたのですが、結局、私は永住権妻と子どもたちはアメリカ国籍取って基本的にアメリカに永住するということになりました。

 子どもたちは、はじめは補習授業校に通っていのですが、途中でドロップアウトしてしまいましたね。

我が家は駐在員家庭だったのですが特に2歳の時に行っていますから、授業が日本に帰国する子どもたちを前提にしたものだと難しかったですね。 

1990年代のニューヨーク

綿引 先生のクラスマネジメントは重要ですよね。いまのお話を日本におきかえて考えると、日本に来た外国の子どもたちを包摂的に日本の学校で受け入れられないということになってしまう。

日本から海外に研修で派遣されている先生方には、失敗を恐れずに、いろんなことトライしてマネジメント力を鍛えていただけたら、と思いますね。

 

平井 私の周りにも、日本の普通の公立小学校に通っている外国人の方結構いて、いろんな人種の子どもたちがランドセルを背負って通っていますよ。親御さんが「現地校に入れる」という主義でやってでしょうね。

 

綿引 ラグビーのワールドカップの日本チームのような社会になるといいですよね多様性の中で暮らしている在外の子どもたちを応援する意味そこにあるんじゃないかと思っています。 

 

平井 そうですね。あとは 、日本が二重国籍をいまだに認めないというのは結構大きいと思います。きちんと「認める」ということをしないと、「日本人を選んでくれなくなる可能性もあります。そう考えると、残念なことですよね。親御さんからしてみたら心配ですよ。

 

綿引 そうですね。子どもも親も社会から応援してもらっている」という気持ちを持てることが大事だと思います

我々は2022年に日本人学校と補習授業に関する法律を議員立法で作ってもらったんですよ。日本の駐在の子どもだけじゃなく、日本のことを勉強したいというどもは基本的に受け入れるというふうにしてもらいたいと思っているのですが、なかなか……。

 

平井 そうですねこれだけ子どもの少ないわけですから、1人でも多くいろんな機会があって、いろんな可能性がある世界を大人がきちんつくってあげないといけないですね

少子化なのにどもたちきちんと扱わないというのは本末転倒ですよ。本当にこの国の将来ですからね。

 

 

アメリカでの原体験

ニューヨークでの子ども時代。自宅でハロウィン、弟と。

綿引 平井さんの子ども時代についてお聞きしますが、幼少期ニューヨークの現地校での学校生活で、特に記憶に残ってることとか、ショックを受けこととかはありますか?

 

平井 小学1年だったのですが、当時は、日本人学校はなくて現地校に行くというチョイスしかありませんでした。初日に、両親現地校のクラスの前まで連れて行かれたんですね。

先生がなにかベラベラしゃべって、ほどなくして母が「じゃあ、一夫、行ってらっしゃい」と、クラスの中に放り込まれたんです。日本国内で転校するのでもプレッシャーじゃないですか? 

それが、1967年のニューヨークですから、急に別世界に放り込まれたというのは、かなり……。いまだに、教室のどこに座ったか憶えていますトラウマだと思うんですが、全部憶えていますよ。 

 

綿引 初日というのはやっぱりインパクト大きかったのでしょうね。そこからいかにしてアメリカ人の友だちのなかに溶け込んでいかれたのでしょう。 

 

平井 私たちが住んで隣の部屋、クリスとジェンという姉弟がいたです、シングルペアレント家庭で、お母さん毎日、仕事に出ていました。

クリスとジェーンは帰ってきてもやることないので、のベランダで遊んでいたんですよ。ベランダ仕切り板みたいなのがあっただけでつながっていたのですが、私もなんとなくベランダにいて彼らもいて、それで互いにちょっかい出し合っていくうちに、言葉はまったくできないのですが、身振り手振りで、コミュニケーションを取るようになりました。

彼らと遊ぶようになってから、英語力、それから文化力っていうですかね飛躍的に向上していきました。 らがいたおかげで、すごく助かったんですよね。

うちの母親も、ここぞとばかりに彼らを家に呼んで、日本ラーメンとかをつくって食べさせたりしていましたね。いっしょに遊ぶことが、英語が早く上達する策だと思ったのでしょうね。

「うちにおいで」と食べ物で誘って、遊ばせてくれたのが、自然に英語身につけることにつながったのではないかなと思います。サンクスギビングだとかクリスマスだとかいろんなイベントあるじゃないですかそんな時もこんなことするんだよとか、その意味を教えてくれたりしてました

英語だんだんできるようになると、アメリカ人と同じように正しく話したくなってくる。いっしょにテレビ見て、あのコメディ番組面白いよねとか。そうなると、英語の上達するスピードが一挙に上がってくる、早いですよね。アメリカ人の子どもたちとしっかりと渡り合えるぐらいコミュニケーションできるところまで吸収できたのは、クリスとジェーンがいてくれたのが大きかったですね。

そこが入り口で、あとはもう本当にうまく滑り込んでいったという感じしょうか。最初は、何が何だかわからないそもそも顔つきがみんな違うし、髪の毛はなんでこんな色してるんだって。そういう時代でしたからね。

綿引 そういう中で、平井さんは友だちができて、そから友だちの輪がワーッと広がっていきますね「オレ、アメリカでだちがいっぱいできたぞ」とか、「オレ、もしかしてニューヨーカーなんじゃない?みたいな高揚感はありました?

 

平井 そうですね、ニューヨーカーっていうのはあまりなかったですけど(笑)。でも、いまでも、現地校に行った初日のことは全部憶えていますから、あの状態からしたら、よくぞここまで来たよね、というのはよく感じてはいました

その頃には英語をきちんと喋ってましたから普通に誰とも会話できますし、テレビ見ても、英語のジョーク全部かるし。それは本当に、クリスとジェーンのおかげだなという振り返りはありましたし、英語だったら誰とも話せるという自信はありましたね。 

 

綿引 世界中どもたちがこのお話を聞いていたとしたら、「平井さんはクリスジェがいてラッキーでしたね。ウチはまわりに誰もいない一軒家なんですケド」とかいう子どももいるかもしれません(笑)

 

平井 そうですね。地域によっても環境はまったく違うと思うです、私の場合、本当によかったなと思うのは日本人コミュニティがなかったことですいまは、ほとんどのところで日本人コミュニティあるじゃないですか?

そこに行けば楽ですよね。日本語を喋ったらいいし、話も合うし2・3年で、親が日本に帰国になるからそれでいいじゃないかと日本人で固まっていたら、それで終わってしまうんですよね。

それいいか悪いか別として、私の時代にはそれがなかったんで。現地の人たちと交流するチョイス以外なかったよかったかもしれません。ただ、いろんな形で現地に入るチャンスはあるんですよ。

たとえば夏休みにはサマーキャンプに行くとか、ローカルのコミュニティでも、いろんなアクティビティあるので、そういうところに積極的に行ってみるとか。親御さん子どもの背中を押してあげること大事になってくると思います

場合によっては親御さんが同じ会社のローカルスタッフでも友だちでもいいのですが休日に家族ぐるみで遊ぶきっかけをつくってみるとか。日本人コミュニティにどれだけ入っていくいかないかというので、結構違ってくると思いますよね。

 

綿引 異文化ので友だちつくるコツみたいなものでしょうか。 自分で壁をつくって、日本人以外はダメ」とかだからオレは英語ができない」とかと自分で壁をつくてしまう、そのコツはつかめないすよね

 

平井 ええ、それはダメですね。日本人だからというわけではなくて、日本に駐在する外国人の中でもまった同じこと起こってすよね。

私は帰国してアメリカンスクール行ってのでよくかるのですが、親の仕事でアメリカから日本に来て、アメリカンスクールに入って、アメリカ人といっしょにワーッと盛り上がって、放課後もアメリカ人といっしょに遊ぶという生活を繰り返していたら、日本語喋る必要ないし、日本の社会と関わる必要もない。

知ってる日本人はアメリカンスクール英語ができる日本ぐらいで、そのままアメリカ帰っちゃいましたいう人もいれば、逆にそれではダメなんだと、ローカルな日本人と交流を持っていたアメリカ人もいました

どこの国に行っても同じだと思いますが、やっぱりチョイスなんですよね。私からしてみれば、ローカルの方々といろんな形で接することによって、語学も文化も知ることができましたし、いろんな視点を持つことができました。その時は単なる遊び相手思ってるかもしれないです、後になって必ずそれは資産になってきますよね。 

 

綿引 それは重要なメッセージですね。「『違う』って面白いとかね

 

平井 自分は賛同しない場合でも言ってることはかる」という理解を示すことができます。そういう視点もあるんだってことを自分ポケットに入れることができる。そこから、ダイバーシティが生まれてくる。相手を論破したところで何のメリットもなりません

子どもの頃、アメリカでいろんなことを見てちょっと違うと思いつつ、こで違うと言っても仕方がないからまあそうだよねぐらいにしておいた方がいいかなということはいろいろありました

生活様式なんかは全部そうですよ。「君たち、家の中に土足で入るのか?みたいな(笑)。あれは衝撃ですよ。だから、私はアメリカの家でもちゃんと靴は脱ぎます。アメリカ人の友人宅に行って、「靴のまま入ってきて」と言われても、「どうなんだよ」と思いつつ、なんか躊躇しながら入る、非常に変な感覚です。

あとは、「これは嫌いですよね?」と聞かれた場合、日本では「はい、嫌いです」という「イエス」じゃないですか。でも英語では“NoI don’t.”、ネガティブネガティブで肯定するんですよね。そういったちょっとした違いいうのは結構面白いなと思いますね。ある意味ではゲームと言ったらおかしいかもしれませんがそこを使い分ける楽しさ、ツールとして使い分けているぞという満足感はありまね。 

 

綿引 平井さんのお話を伺っているとどもながらに相手のこと受け入れる」ということができているのを感じるのですが。 

平井 それは、自分がそうされたからというのもあるのかもしれませんが、一部の子どもたちからジャップとか、さまざまな嫌がらせの言葉を言われることがあったんですね。

そういうのは英語できなくてもわかりますから、「なんで、そんなことを言われなきゃいけないんだと思いつつ、言い返しても意味ないから受けてたんですよ。受け入れつつ、「なんか違うぞ」って思いながら過ごすことはありましたね。

 

綿引 ともに過ごすなかで、だち同士でシンパシーが生まれる瞬間、「オレたち本当の友だちになったぞみたいな経験はありましたか?

 

平井 クリスマスとかに招いてもらって、いっしょセレブレーション!」言い合って、プレゼントをあげたりくれたりとかあとは、クリスとジェーンのお母さんがウチに来て、食事に誘ってくれたり。

そうやって、家族ぐるみの付き合いができたというのはすごく大きかったかなと思います。本当に仲間に入れてくれたんだいうか、嬉しかったですね。

 

 

次のページ:コミュニケーションの価値