第45回海外子女文芸作品コンクール 審査結果発表(作文その1)
海外子女教育振興財団主催の第45回海外子女文芸作品コンクールの審査結果が発表されました。このたび、特別賞受賞作品をご紹介します。
このコンクールは海外に在住する小・中学生が言語・風習・気候風土・治安など、日本と異なる生活環境の中で感じ、考え、感動したことを日本語で表現することを促すために、1979年から毎年行われています。今回は、家族や友達、先生との温かいふれあいが題材になったものなど、子どもらしい明るさ、元気さ、輝きを感じる作品が目立ちました。
良質の作品の応募には先生方の指導や学校としての取り組み、家庭教育の大切さを痛感します。子どもらしい気づきや素直な好奇心に、文章の構成や語彙など日本語の知識を高める機会が加われば、さらに気持ちの伝わる素晴らしい作品になることでしょう。
なお応募作品総数は29,820点(作文=2,387点、詩=2,660点、短歌=6,256点、俳句=18,517点)。昨年に比べて作文と詩は減少しましたが、短歌と俳句は大幅に増えて、全体では昨年度より多くの作品が集まりました。日頃からメールやチャットに慣れ親しんでいるSNS世代の子どもたちにとって短歌や俳句などの短い表現方法は親しみやすくなっているのかもしれません。
これらの作品は予備審査を経て9月20日、海外子女教育振興財団(東京都港区)で行われた最終審査会にかけられ、協議の末、文部科学大臣賞をはじめ、海外子女教育振興財団会長賞、後援・協賛者賞、特選、優秀、佳作が決定しました(特選・優秀・佳作・学校賞の審査結果は弊財団の文芸作品コンクールのサイトに掲載しています。(https://www.joes.or.jp/kojin/bungei)。
なお今年の12月には、作品集『地球に学ぶ 第45回』が刊行される予定です。
文部科学大臣賞
私のアイデンティティ
カナダ在住
小5 曽根 あやめ
私は三才の時に父の仕事で、日本からカナダに引っ越して来た。カナダに来てからも街を転々とし、学校も三度変わった。この春にも引っ越しをしたので、新しい環境でスタートを切っている。一昨年、昨年は日本の小学校にも通った。二つとも違う小学校だったので、今まで出会った同級生や先生の数は普通よりずっと多いと思う。
私は初めて会う人に必ず聞かれることがある。それは「どこから来たの?」という質問だ。私はこの質問にいつも、どう答えれば良いか悩んでいる。「どこ」とはいつの時点を指しているのだろうか? まず、私が生まれたのは日本である。母の出身の東京都で三才まで暮らしていた。しかし、次にこの場所に戻ったのはそれから五年後の八才の時だ。この時も日本の小学校で「どこから来たの?」と聞かれた。この時は「カナダのオタワからだよ。」と答えたが、私が生まれた場所、という意味に対して答えるのなら「日本の東京だよ。」と返事をする。
引っ越し先の小学校でもまた、「どこから来たの?」と質問される。「ここから車で十五分くらいの、となりの街から引っ越してきたよ。」と答えているが、「そうじゃなくて、どこの国から? 中国から?」と言われることも少なくない。私の住んでいる街には日本人があまりいないので、アジア人は中国人と思われることが多いが、「生まれたのは日本だけど、一番長く住んでいるのはカナダだよ。」と、モヤモヤしながら回答している。
しかしつい最近、そんな悩みを払拭する出来事があった。現在私のクラスでは、ヨーロッパで行われているサッカー欧州選手権についての話題で持ちきりである。ある日クラスの生まれも育ちもカナダの男の子が、
「ぼくはカナダ人だけど、ルーツはイタリアだから、イタリアを応援しているよ。おじいちゃんがイタリア人だからね。イタリアはすごい国なんだ。四回もワールドカップで優勝しているしね。ちなみに世界一おいしい食べ物はピザとパスタだ!」
と、大声で言っていた。また、他のカナダ人の男の子は、
「ぼくのママはフランスで育ったんだ。だからぼくはサッカーではフランスを応援しているんだ。エムバッペはドリブルもうまくて足も速くて、歴史上最高の選手だ!」
と、自分のことのように自慢している。他にも、カナダで生まれ育った、ドイツ人・ギリシャ人・ブラジル人・モロッコ人・ポルトガル人・中国人・ナイジェリア人・ロシア人・ジャマイカ人、それぞれが自分の国自慢をし、サッカーも自分の国が一番だと競い合っている。最近のランチタイムは、先生も混ざって試合結果や内容について話し、そこから食事や文化がテーマの雑談に発展することが多い。言語の話題になれば、同じ発音の言葉が違う意味だったと気付いたりして、ゲラゲラと声を出して笑う。とても楽しい時間だ。クラスメイトのことを知る良い機会にもなるし、何より異文化の話は興味深い。私も負けじと、「レアル・ソシエダの久保は緩急をつけたドリブルがすごいんだよ。日本のメッシだよ。それになんといってもメジャーリーグで活躍している大谷は世界一の野球選手だからね。」
「あ、それと、みんなが大すきなお寿司は日本のものだからね。」
と付け足した。
私はみんなが笑顔で話す姿を見て、多くの子供が自然に、カナダという国以外も自分の国だと認識しているという事実にちょっぴり驚いた。同時に、「自分の国が一つだけである必要はないんだ。」ということに気付かされた。自分の生まれた国以外に住む経験は誰しもができることではない。今住んでいるカナダや、これから住むかもしれない国だって自分の国だと思って良いのだ。様々な国の文化に実際に触れることができる私はとてもラッキーなのだ。
そして、自分の国や文化への愛情を育むには、外の国の人との交流こそが大きな役割を果たすのではないかと私は考える。友人が日本食を喜んで食べてくれたり、和風の雑貨を素敵だとほめてくれたとき、小さな「誇り」を感じた経験がある人は多いのではないだろうか。相手にもっと伝えるために、自分自身が自分の国について多くを学ばなければならないと感じたことがある人も少なくないはずだ。様々な国に住んで人や文化を知るという積み重ねの中に、自然とふるさとへ愛情が芽生え、育まれていくに違いない。私はそれぞれの民族がお互いの文化を大切にして、一緒に社会を作っているのが、カナダだなあと思う。カナダのそういうところが大好きだ。私も日本の歴史や文化を日本にいる日本人以上に学び、カナダに、そして世界に、発信していきたい。
海外子女教育振興財団会長賞
レギーナさんと小さな本
デュッセルドルフ日本人学校(ドイツ)
中1 小田島 美遥
私は本を読むことが好き。友情を描いた作品や伝記も好きだし、ミステリーも好き。中でも旅に出かける物語を読む時は、登場人物の仲間になったみたいで、本の世界に溶け込んでいく。何かの目的や夢に向かって行くメンバーが、山あり谷ありの旅を続けて行った先に待っている喜びや悲しみに、いつも感動してしまう。
人生はよく旅にたとえられる。良い旅には素敵な出会いが待っていて、その出会いからみんなをワクワクさせる物語が始まる。それは、本の中だけの話かと思っていた。去年の夏までは。
二〇二三年の夏、私は家族と一緒に南ドイツを旅することになった。ドイツは南に高い山々があって、北に行くにつれてだんだん平らな土地が多くなっていく。私の住むデュッセルドルフには丘はあっても高い山がない。だから、南ドイツの高い山々を見ると、別世界に来たように感じた。
私たちが訪れたのは、ガーミッシュ・パーテンキルヒェンというところで、ドイツで一番高い山であるツークシュピッツェに最も近い町の一つだ。「とがった先」という意味の「シュピッツェ」の名の通り、その山は、地面から急激にそそり立っていて、真下から頂上を見るのに頭をグイッと上げないと見上げることができない。ふもとの駅から山頂の駅までケーブルカーが走っていて、その標高差はなんと二千メートルにもなる。それを全長約三千メートルのケーブルで一気に登っていく。途中、雲の中を通ったり、鉄塔を通過する時にケーブルカーがグイーンと大きく揺れたりして、まるで鳥になって空を飛んでいるみたいだった。下に見える動物たちがだんだんと小さくなって、全く見えなくなる。そしてケーブルカーを降りると、八月なのに真っ白な雪の世界が広がっていた。
私は、山頂にある教会の礼拝に出席した。牧師さんの言葉はドイツ語だったけれど、礼拝の後に聞こえてくる言葉はいろいろで、
「あぁ、ここには世界中からたくさんの人たちが集まって来ているんだな。」
と驚いてしまった。
ふもとの町に降りて来ても、いろいろなところから、さまざまな言語が聞こえてくる。両親に聞いたら、それらがフランス語やスペイン語、トルコ語や中国語などであることを知った。そして、時々日本語も聞こえてきた時は、家族みんなで振り返ってしまった。
そんな土地がらだからか、レストランやホテルの人たちは英語で話しかけてくれる。私たち家族が泊まったところは、部屋が十部屋ほどの宿だった。観光シーズンだったから、どこのホテルも満室で旅行をあきらめかけていたところ、大手の宿泊検索サイトには出てこない宿を父が偶然見つけて予約することができた。日本人の口コミがない宿だから、どんなところか両親は心配したらしいけれど、行ってみて本当に良かった。今まで泊まったどんなところよりも素敵だった。
宿を経営しているのは、トーマスさんとレギーナさんというご夫妻と、トーマスさんのお母さんだった。受付と食事、接客と掃除のすべてを家族でしているのに、みんないつもニコニコ笑顔で、トーマスさんは私たち子供を見ると、面白い声を出したり、ジョークを言ったりして私たちを笑わせてくれた。
毎朝のご飯は、南ドイツでしか食べられないようなチーズやジャムを用意してくれて、泊まっているみんなに、
「これは、この地方でよく食べるチーズなんですよ。」
とか、
「このヤギのチーズは食べてみた? 美味しいから食べてみてね。」
などとよく声をかけてくれた。そして、それら全部が本当に美味しくて、毎朝の食事が待ち遠しかった。
何日か経った時、新しいお客さんが来た。すると、レギーナさんが私の知らない言葉でとても流ちょうに話していた。母がレギーナさんに、
「あのお客さんたちとは、何語で話していたんですか?」
と質問すると、
「イタリア語よ。」
と教えてくれた。
レギーナさんはドイツ人で、もともとはイタリア語を話せなかったけれど、若い時にイタリア語を勉強して、今ではイタリアからたくさんのお客さんが泊まりに来るそうだ。
「きっと言葉が通じると安心するし、楽しいから、イタリアからのお客さんに人気があるのかもしれないな。」
と、私は心の中で思いながら、
「それじゃあ、レギーナさんが日本語を話せるようになったら、日本からたくさんのお客さんが来るようになるかも。」
と想像して、あるアイディアを思いついた。
さっそく部屋に戻って、コピー用紙で紙の本を作った。いつもレギーナさんが私たちに話しかけてくれる言葉を選んで、それらを英語と日本語で書いた小さなあいさつ集を作るためだ。
「最終日にサプライズで渡すぞ!」
と計画して、毎日レギーナさんが言っている言葉に耳を傾けて、こっそりあいさつ集メモに書き留めた。まるで、スパイをしているようで緊張したけれど楽しかった。
「文字だけじゃなくて、イラストも付けてみたら分かりやすいんじゃない?」
と、父が助言してくれた。最終日の朝までかかってしまったけれど、とてもかわいいあいさつ集ができて、自分でもうれしくなった。
「レギーナさん、これ、プレゼントです!」
最後の朝食を食べた後、私はレギーナさんにあいさつ集を手渡した。
「わぁ、これは一体何かしら? 英語と……もしかして、日本語?」
「そうです!日本語です‼」
「オー、ありがとう‼ これはなんて読むのかしら? オ、ヤ、ス、ミ?」
「すごーい、上手!」
レギーナさんは日本語も日本のこともほとんど知らなかったみたいで、初めての日本語にとても喜んでくれて、
「トーマス、トーマス! これを見て。日本語と英語のあいさつ集なのよ。」
と、トーマスさんにうれしそうに見せていた。
私は喜ぶレギーナさんを見て、
「あぁ、作ってよかったなあ。」
と心がほっこりした。
最後のお別れの時、レギーナさんが、
「サ、ヨー、ナラ。マタネ。」
と笑顔で言ってくれて、うれしい気持ちとさびしい気持ちが混ぜこぜになって、笑ってしまった。
ドイツに長く暮らしていて、旅行でこんなに素敵な体験ができたのは初めてだった。心と心がふれあっているような温かさを感じた。それは、レギーナさんたちが私たち家族のことを心から想って接してくれたからだと思う。あいさつ集を作っていた時には意識していなかったけれど、
「この小さな本を通して、新しい素敵な出会いが広がってくれたらいいな。」
と、心のどこかで願っていたのかもしれない。
良い旅には素敵な出会いが待っている。心と心のふれあいの先には笑顔があふれることを、レギーナさんたちが教えてくれた。
日本放送協会賞
ある日本人女性の物語
イスラマバード日本語クラブ(パキスタン)
中2 白井 奏伍
織田俊子さんがパキスタンの古都ラホールで暮らし始めたのは一九六〇年、今から六十四年前のことだ。エンジニアだった旦那さんは日本に留学していたこともあり、二人は日本で出逢って結婚したそうだ。パキスタンが独立してまだ十三年しか経っておらず、バングラデシュが東パキスタンだった頃のことだ。僕がパキスタンスタディの授業で習っている、教科書でしか知らない時代を織田さんは体験して来たのだ。
織田さんには二人のお嬢さんが居る。お嬢さんと言っても僕の母よりも年上で、もう孫まで居るほどだ。つまり、織田さんには孫だけでなく曽孫も居る。家族みんなが織田さんのことを尊敬して大切にしており、とても仲睦まじい素敵な家族だ。
現在イスラマバードのラーワル湖畔の家に暮らす織田さんの庭は、まるで公園のように広大で、植物園のように四季折々の花が咲き乱れ、畑で採れる野菜はびっくりするほどおいしい。織田さんは植物に詳しく、生け花師範の資格を持っている。パキスタン人達にボランティアで生け花を教えてきた。ピアノや三味線、琴を演奏し、裁縫や編み物も上手で逆に出来ないことがあるのかどうか疑問に思うほどだ。
織田さんは大阪外国語大学のインド語科を卒業した。当時の女性の大学進学率はたったの5%だ。二十人に一人の割合でしか女性が大学に進学していなかった時代に、ウルドゥ語を学んでいたのはとても珍しかったことだろう。そのウルドゥ語を活かして、織田さんは様々な分野で活躍してきた。長く日本国大使館で勤務して、パキスタンの政治家や実業家の友人も多い。今のシャバーズ・シャリーフ首相のことも若い頃から知っているそうだ。大使館を退職してからは、口唇裂の子供達の病院を支援したり、パキスタン日本文化協会の副会長として日本文化の普及に貢献してきた。その功績を認められて、二〇一八年に外務大臣表彰、二〇二〇年に旭日単光章を受章した。
僕の母が二十五年前、パキスタンで観光業の仕事を始めた時に知人に紹介されて初めて出会った日本人が織田さんだったそうだ。織田さんはその時以来、数日おきに電話をくれて、元気にしているか、問題はないかと気にかけてくれていた。それを織田さんは母だけにではなく、様々な国籍の友人達皆に同様に気を配っていた。母はいつも、
「織田さんみたいに立派な日本人の先輩が居てくれて本当に有難い。ママも二十年以上パキスタンに暮らしていると、エキスパートみたいに言われるけど、織田さんが居ると自分はまだまだだって実感できるから。」
と、言っていた。
二〇二二年冬、母は織田さんに送ったメッセージが何日も既読にならず、携帯電話も応答がなく、家の固定電話も留守番電話なので心配になって、直接家に出向くことにした。念のために直前にもう一度携帯電話を鳴らすと、お嬢さんのルビーナさんが応答した。
織田さんは脳卒中で倒れたのだ。母が駆け付けると、他にも日本人の友人が知らせを受けてお見舞いに来ていた。ベッドで横たわる織田さんは身動きが取れず、口もきけない状態だった。あれだけ頭脳明晰な織田さんが言葉を発することさえ困難な状況に陥っていることが信じられなかった。その後、僕も何度かお見舞いに行かせてもらった。
織田さんは同じ敷地内にあるお嬢さんの家で在宅看護を受けている。二人のお嬢さんの献身的な看病のおかげで、織田さんは奇跡的な回復を見せた。半身麻痺で寝たきりではあるが、起き上がって食事が出来るようになり、少しずつ言葉が戻って来たのだ。
ところがひとつ問題があった。あれだけ三ヶ国語を流暢に話していた織田さんが、日本語にのみ強い反応を示すようになったのだ。織田さんのお嬢さん達は日本語が話せず、織田さんとはいつもウルドゥ語で会話をしていた。お嬢さん達がとても小さかった頃は日本語で会話をしていた時期もあったそうだ。でも、織田さんとお嬢さんとが日本語を話していると、周りの人に分からない言葉なので、そこに居る誰かの悪口を言っているのではないかと疑われたりすることもあって、日本語を使うのをやめてしまったと教えてくれた。お嬢さん達は大人になってから「日本語が出来たらなぁ。」と何度も思ったそうだが、こうして織田さんの看護をするようになって、その思いを強くしているに違いない。
織田さんの味覚にも変化が現れた。パキスタン料理をほとんど受け付けなくなったのだ。そんな織田さんの変化にもお嬢さん達はうろたえなかった。僕の母に積極的にアドバイスを求めて、日本語に挑戦し、和食のレパートリーを増やして行ったのだ。豆腐などパキスタンで入手困難な食材はゼロから手作りをして僕達を驚かせた。
織田さんが倒れて一年半が過ぎた。織田さんの家族はお孫さん達が暮らす北米への移住を計画している。パキスタンルピー暴落の影響で物価が高騰し続け、政治も混乱しており国外に伝手のあるパキスタン人は皆逃げるように海外に出ている。織田さんの治療を考えてもアメリカやカナダの方が良いのかもしれない。ルビーナさんが、
「アンミ(お母さん)、飛行機に乗れるように、リハビリがんばろうね!」
とウルドゥ語で話しかけていた。
ある日、僕は織田さんと二人きりになった。母はお嬢さん達の手伝いで別の部屋に行っていたのだ。色々話していると、織田さんは
「本当は日本に行きたい。」
と打ち明けた。僕は
「ああ、そうなんですね。」
と言う以外に言葉が見つからなかった。思いがけず織田さんの本音を打ち明けられた気がした。自力で寝返りを打つこともできず、毎日ひたすら天井を見つめる織田さんの頭の中には懐かしい日本の景色ばかりが浮かんでいるのかもしれない。人生の四分の三をパキスタンで過ごして、素敵な家族に囲まれていても、自分の生まれ故郷は特別なのだろう。
「僕が日本に連れて行ってあげます。」
と、約束をすることはできないけれど、せめて日本語で話し相手になることで、織田さんの心が日本に近づけるのなら、僕は何度でもお見舞いに行きたいと思う。
僕はパキスタンで生まれ育った。僕が八十歳になる頃、一体どこで暮らしているだろう。どこか別の国で暮らしていて、飛行機での移動が困難になったら、パキスタンを夢見るようになるのだろうか。今はまだよくわからない。でも、その時になったら、織田さんの気持ちがわかるようになるのかもしれない。