日本放送協会賞

ある日本人女性の物語

イスラマバード日本語クラブ(パキスタン)

中2 白井 奏伍

      

 織田俊子さんがパキスタンの古都ラホールで暮らし始めたのは一九六〇年、今から六十四年前のことだ。エンジニアだった旦那さんは日本に留学していたこともあり、二人は日本で出逢って結婚したそうだ。パキスタンが独立してまだ十三年しか経っておらず、バングラデシュが東パキスタンだった頃のことだ。僕がパキスタンスタディの授業で習っている、教科書でしか知らない時代を織田さんは体験して来たのだ。

 織田さんには二人のお嬢さんが居る。お嬢さんと言っても僕の母よりも年上で、もう孫まで居るほどだ。つまり、織田さんには孫だけでなく曽孫も居る。家族みんなが織田さんのことを尊敬して大切にしており、とても仲睦まじい素敵な家族だ。

 現在イスラマバードのラーワル湖畔の家に暮らす織田さんの庭は、まるで公園のように広大で、植物園のように四季折々の花が咲き乱れ、畑で採れる野菜はびっくりするほどおいしい。織田さんは植物に詳しく、生け花師範の資格を持っている。パキスタン人達にボランティアで生け花を教えてきた。ピアノや三味線、琴を演奏し、裁縫や編み物も上手で逆に出来ないことがあるのかどうか疑問に思うほどだ。

 織田さんは大阪外国語大学のインド語科を卒業した。当時の女性の大学進学率はたったの5%だ。二十人に一人の割合でしか女性が大学に進学していなかった時代に、ウルドゥ語を学んでいたのはとても珍しかったことだろう。そのウルドゥ語を活かして、織田さんは様々な分野で活躍してきた。長く日本国大使館で勤務して、パキスタンの政治家や実業家の友人も多い。今のシャバーズ・シャリーフ首相のことも若い頃から知っているそうだ。大使館を退職してからは、口唇裂の子供達の病院を支援したり、パキスタン日本文化協会の副会長として日本文化の普及に貢献してきた。その功績を認められて、二〇一八年に外務大臣表彰、二〇二〇年に旭日単光章を受章した。

 僕の母が二十五年前、パキスタンで観光業の仕事を始めた時に知人に紹介されて初めて出会った日本人が織田さんだったそうだ。織田さんはその時以来、数日おきに電話をくれて、元気にしているか、問題はないかと気にかけてくれていた。それを織田さんは母だけにではなく、様々な国籍の友人達皆に同様に気を配っていた。母はいつも、

「織田さんみたいに立派な日本人の先輩が居てくれて本当に有難い。ママも二十年以上パキスタンに暮らしていると、エキスパートみたいに言われるけど、織田さんが居ると自分はまだまだだって実感できるから。」

と、言っていた。

 二〇二二年冬、母は織田さんに送ったメッセージが何日も既読にならず、携帯電話も応答がなく、家の固定電話も留守番電話なので心配になって、直接家に出向くことにした。念のために直前にもう一度携帯電話を鳴らすと、お嬢さんのルビーナさんが応答した。

 織田さんは脳卒中で倒れたのだ。母が駆け付けると、他にも日本人の友人が知らせを受けてお見舞いに来ていた。ベッドで横たわる織田さんは身動きが取れず、口もきけない状態だった。あれだけ頭脳明晰な織田さんが言葉を発することさえ困難な状況に陥っていることが信じられなかった。その後、僕も何度かお見舞いに行かせてもらった。

 織田さんは同じ敷地内にあるお嬢さんの家で在宅看護を受けている。二人のお嬢さんの献身的な看病のおかげで、織田さんは奇跡的な回復を見せた。半身麻痺で寝たきりではあるが、起き上がって食事が出来るようになり、少しずつ言葉が戻って来たのだ。

 ところがひとつ問題があった。あれだけ三ヶ国語を流暢に話していた織田さんが、日本語にのみ強い反応を示すようになったのだ。織田さんのお嬢さん達は日本語が話せず、織田さんとはいつもウルドゥ語で会話をしていた。お嬢さん達がとても小さかった頃は日本語で会話をしていた時期もあったそうだ。でも、織田さんとお嬢さんとが日本語を話していると、周りの人に分からない言葉なので、そこに居る誰かの悪口を言っているのではないかと疑われたりすることもあって、日本語を使うのをやめてしまったと教えてくれた。お嬢さん達は大人になってから「日本語が出来たらなぁ。」と何度も思ったそうだが、こうして織田さんの看護をするようになって、その思いを強くしているに違いない。

 織田さんの味覚にも変化が現れた。パキスタン料理をほとんど受け付けなくなったのだ。そんな織田さんの変化にもお嬢さん達はうろたえなかった。僕の母に積極的にアドバイスを求めて、日本語に挑戦し、和食のレパートリーを増やして行ったのだ。豆腐などパキスタンで入手困難な食材はゼロから手作りをして僕達を驚かせた。

 織田さんが倒れて一年半が過ぎた。織田さんの家族はお孫さん達が暮らす北米への移住を計画している。パキスタンルピー暴落の影響で物価が高騰し続け、政治も混乱しており国外に伝手のあるパキスタン人は皆逃げるように海外に出ている。織田さんの治療を考えてもアメリカやカナダの方が良いのかもしれない。ルビーナさんが、

「アンミ(お母さん)、飛行機に乗れるように、リハビリがんばろうね!」

とウルドゥ語で話しかけていた。

 ある日、僕は織田さんと二人きりになった。母はお嬢さん達の手伝いで別の部屋に行っていたのだ。色々話していると、織田さんは

「本当は日本に行きたい。」

と打ち明けた。僕は

「ああ、そうなんですね。」

と言う以外に言葉が見つからなかった。思いがけず織田さんの本音を打ち明けられた気がした。自力で寝返りを打つこともできず、毎日ひたすら天井を見つめる織田さんの頭の中には懐かしい日本の景色ばかりが浮かんでいるのかもしれない。人生の四分の三をパキスタンで過ごして、素敵な家族に囲まれていても、自分の生まれ故郷は特別なのだろう。

「僕が日本に連れて行ってあげます。」

と、約束をすることはできないけれど、せめて日本語で話し相手になることで、織田さんの心が日本に近づけるのなら、僕は何度でもお見舞いに行きたいと思う。

 僕はパキスタンで生まれ育った。僕が八十歳になる頃、一体どこで暮らしているだろう。どこか別の国で暮らしていて、飛行機での移動が困難になったら、パキスタンを夢見るようになるのだろうか。今はまだよくわからない。でも、その時になったら、織田さんの気持ちがわかるようになるのかもしれない。