現在、アメリカ・ワシントン州シアトルで米国企業に勤務している久保良太さん。父親の赴任帯同で9歳から15歳までをコネチカット州で過ごした。アメリカでの子ども時代や「帰国子女」として過ごした高校・大学時代、また、社会人になってからの葛藤や、現在の生活の様子などを、話してもらった。
(取材・執筆 Makiko)
アメリカ時代の原体験——サッカーでハイタッチと、9.11
—良太さんは、小学3年生から中学3年生までをアメリカで過ごしていたのですね。その頃の様子を教えてください。
日本では、放課後は毎日公園で遊んで、友達がたくさんいるような、本当に普通の子どもでした。性格がシャイなのはもともとなのですが、これで渡米後は苦労しました。自分から周りに壁を作って、コミュニケーションを取ろうとしませんでした。周りが数年で卒業していくESL(英語を母語としない人のための英語プログラム)には6年もいたんです。
それが、体育の授業でサッカーをした時に、終了間際にたまたまゴールを決め、クラスメイトとハイタッチをしたことが、自分の中で大きな出来事になりました。それからはサッカーに打ち込みました。「何かしらの結果を出すと、認められるんだ」と、その時に学んだのだと思います。ただ、この頃はアジア人差別があり、コーチによっては試合に出してもらえないなど、悔しい思いをすることもありました。

—現地校に通っていた中学1年生の時に9.11(アメリカ同時多発テロ事件)が起こりました。
これも、その後の人生の「選択」の時には立ち返るような原体験になっています。日本人の方も犠牲になりましたし、中には補習校の同級生のお父さんもいました。その当時は飛行機が家に墜落してくる夢を繰り返し見ました。あの恐怖感は今でも覚えています。事件直後に何も判明していない中で、「またパールハーバーなんじゃないか」という声が学校内で聞こえた時には、「なんだか気まずいな」と感じたのを覚えています。

帰国後の苦労——高校、大学、就職先で
—高校生になるタイミングで本帰国になり、日本の高校に進学されたのですね。
アメリカ生活ではサッカー以外に特に楽しみがなくて、日本に帰るのを心待ちにしていました。受験にあたっては猛勉強しましたね。「日本に帰るぞ」って。晴れて、大学附属の高校に入学しました。
しかし、高校生活ではいろいろと苦しみました。
まず、自分にとって一番大切だったサッカーですが、サッカー部に入部したものの、先輩との関係や敬語の使い方が皆目わからず、コミュニケーションを取るのさえ怖くなり、続けるのを諦めてしまいました。
若者言葉もわかりませんでした。「だるい」とか(笑)。何か発言すると、「あー、帰国子女だもんね」と言われるのが嫌でしたし、それで「いじられる」ことに違和感を覚えました。
結局、高校時代は早々に部活を辞めて、虚無感に包まれて過ごしました。「アメリカで自分を支えてくれていたサッカーを、コミュニケーションのせいでやめてしまった」というのは、大きな挫折感でした。敬語、先輩後輩、暗黙のルールなど日本独特のカルチャーの壁が本当に高かった。「日本にもっと馴染めたら、こんなことにならなかったのに」という思いが強まりました。
—帰国生特有の「空気の読めなさ」を開き直る人もいますが、良太さんは「頑張って馴染もう」という方向に動いたのですね。
今振り返ると、「開き直っちゃえばいいじゃん」って思うんですけど。当時は「日本に入り込もう」って、すごく頑張っていましたね。
その思いから、大学ではラクロス部を選びました。日本一を目指すような部活だったので、すごくコンペティティブで厳しかったです。最後には日本一になり、「この環境で4年間頑張ったんだ」という自分の自信にすることができました。
でも、そこでも「真の日本人になれた」という実感が生まれることはなかったんです。 依然として、アメリカでも「内側」には入れなかったし、日本でも「内側」には入り込めていない、と感じていました。
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—卒業後は、総合商社へ。ようやくご活躍の時が来たかと思われますが……。
サッカーで認められたように、国際舞台で認められるようなビジネスパーソンになりたいと思い、商社に入りました。商社マンの特徴かもしれませんが、皆さんコミュニケーション能力がすごく高いんです。最初は国内向けのビジネスを担当することになりましたが、同期や後輩を見ていると、お客さんの懐に入るのが上手。僕は「なんだかお客さんに好かれないな、懐に飛び込めないな」と感じていました。思えば、僕のバックグラウンドには、お客さんである日本企業の方との共通点が、ほとんどなかったんです。国内向けビジネス担当時の評価は平均的でした。
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—28歳のとき、アメリカ・モンタナ州で海外研修の機会を得ます。
久しぶりのアメリカでしたが、現地に溶け込むのに、ほとんど時間がかかりませんでした。懐かしくて楽しいし、ハンバーガーを毎日食べても大丈夫(笑)。地元の人と話して打ち解けられる。モンタナ州でこれまで駐在員が馴染んで活躍したなんてことはほとんどなかったそうなので、周りに驚かれていたようです。
半年も経つと、だいぶ現場のことが見えてきました。僕はただ毎日スタッフとおしゃべりしながら作業していただけなのですが、それをレポートにして日本に送ると、本社から高く評価されました。
日本ではKY(空気が読めない)と言われたこともあったけれど(笑)、モンタナ州の空気は読めたんです。日本では入れなかった懐に、アメリカでは入れた。現場の本音を引き出せた。行間が読めた。
日系企業の駐在員という日本とアメリカの間に立つポジションに入ったとき、初めて、「これが自分の居場所だ」という感覚を、持ちました。

「見つけた居場所」を出て、新しい挑戦へ
—その後オレゴン州での駐在を経て、退職され、UCバークレーでMBAを取得し、アメリカでビッグテック企業に就職されました。やっと見つけた「日系企業の駐在員」としての居場所から、さらに挑戦されたのですね。
アメリカのスタッフと現場作業をしながら、「個人としてアメリカでどこまでいけるかチャレンジしてみたい」と思い始めました。
MBAを取るのも、アメリカで就職するのも、大変なことはたくさんありましたが、今後は今自分が想像つかないようなところまで、行きたいです。将来的には火星に移住するところまでは想像していますよ(笑)。
これまで、コミュニケーションで長く葛藤してきましたが、今、自分の強みを挙げるとしたら、コミュニケーション能力になるのかもしれません。小さい頃から「自分と違う考え方の人がいる」ことを意識してきたことで、仕事でも、相手の立場に自然に立つことができます。
—海外生活で「馴染めない」、「中途半端」などと、悩んでいる人へメッセージをお願いします。
悩むことはあるでしょうけれど、そこは早めに割り切って、得意なことを探すといいと思います。僕は現在ビッグテック企業の宇宙事業部門でファイナンスの仕事をしていますが、アウェーでハードな環境に立ち向かえるのは、アメリカでの子ども時代があったからです。僕は悩む時間も長かったし、困難な道を選びがちですが(笑)、居場所は皆それぞれの軸の中で見つけていけるものだと思いますから。

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