「再構築ばかりの人生」から見つけた、癒しの形
2025年10月20日
イマドキの海外生活

「再構築ばかりの人生」から見つけた、癒しの形

アメリカ、オハイオ州に住むカレン・リーさん。テキサス州に生まれ、生後3カ月で国際言語学を教える父の仕事でマレーシアに引っ越し、7歳までを過ごした。その後再びテキサス州で暮らし、10歳から12歳までをシンガポール、12歳から14歳までをオーストラリアで暮らした。テキサス州で高校、大学を過ごして、現在はアジア系の夫と2人の子どもと共にオハイオ州で暮らしている。移動の多い成長期の利点や難点、現在振り返って考えることなどについて、話を聞いた。

(取材・翻訳・執筆 Makiko)  

生後3カ月で家族とともに海外生活へ
生後3カ月で家族とともに海外生活へ


「セレブ」みたいなマレーシア生活と、母国への反発  

—カレンさんは移動の多い成長期を送ったそうで、いわゆる「サード・カルチャー・キッズ」(両親の母国以外の文化の中で育つ子ども)だったのですね。  

 

アメリカには”Born and raised”(生まれ育ち)という言葉がありますが、私にはそれがないですね(笑)。生まれはテキサス州ダラスですが、記憶があるのはマレーシアからです。手伝ってくれる大人が周りにたくさんいて、良い暮らしをしていたという思い出があるので、その後、帰国して3年間を過ごした生まれ故郷のテキサスでの生活はむしろ辛いと感じていました。10歳で今度はシンガポールに渡ることになった時にはワクワクして行きましたし、実際に両親に頼らずに一人でバスに乗るような生活が楽しかったです。学校帰りに自分で屋台からおやつを買って食べるのが大好きでした。 

マレーシア時代には楽しい思い出が多い。気に入っていた制服(左)、1,000人以上の観客の前で歌を披露したことも(右)

—どのように、「母国が辛かった」のでしょうか?  

 

自分で自由に買い食いしたり、外に出たりできるシンガポールやオーストラリアに住んでから14歳で再びテキサスに戻った頃には、せっかく自立しているのにも関わらず、両親にお願いして車に乗せてもらわないと何もできないという状況をストレスに感じました。知っている土地と家ではあるものの、人間関係はすでに変わっていて、再び入ろうとするのが難しかったです。思春期の女子だったので、周りと同じような服を持っていないのが気になりましたし、みんなは学校に居場所があるのに自分だけはないと感じました。両親は元いた場所に戻って楽しそうでしたが、そういった両親との温度差も感じていました。  

 

マレーシアでの自由さや豊かさを思い出すたびに、アメリカやテキサスに対する不満が目につきました。でもおそらく、マレーシア時代を記憶の中で美化していった部分もあったのだと思います。歳を重ねて、大人になってからマレーシアで住んでいた時の家を再訪した時に、そんな自分に気がつくことができました。

オーストラリアで過ごした中学時代。アメリカやアジアと違い、オーストラリアでは年度が1月から切り替わるため、自分が何年生なのかわからなくなったことも
オーストラリアで過ごした中学時代。アメリカやアジアと違い、オーストラリアでは年度が1月から切り替わるため、自分が何年生なのかわからなくなったことも
テキサスの高校ではダンスチームに所属した。「ダンスチームに入ることで高校生活にいくらかの帰属意識を感じることができましたが、今思うと表面的なレベルにとどまっていました」
テキサスの高校ではダンスチームに所属した。「ダンスチームに入ることで高校生活にいくらかの帰属意識を感じることができましたが、今思うと表面的なレベルにとどまっていました」  

「再構築」の多い半生から、ポジティブな癒しへ 

 —小学校、中学校時代は転校が続きましたが、高校からはテキサスで過ごされています。「やっと落ち着ける」という感覚でしょうか?  

 

思い返せば、成長期が本当に忙しかったので、大学に入る頃にもまだ自分が何をしたいのか、はっきりわかりませんでした。それに、大学に入学して「4年間も同じ場所にいる」と想像するだけで長すぎてとても耐えられないように感じました。「何か専攻を見つけて、落ち着かなきゃ」と思ってはいましたが、それが難しかったです。常にせわしない、落ち着かない感覚に取り憑かれていましたね。結局「アイビー・リーグ」を含む5つの大学に転入を繰り返し、最終的には地政学を専攻し5年かけて卒業しました。自分で判断して次の場所を見つけ、ジャンプして進むようなこの過程は、他の人には難しいのかもしれませんが、正直なところ、私にとってはごく自然な動きでした。  

 

 

—卒業後は銀行に就職し、タイで英語の教師生活を経て、現在は育児を中心に生活されています。育児から発見することはありますか?  

 

「ママが5歳だった頃は、マレーシアでこんなものを食べていたのよ」などと子どもに話しながら育てています。育児を通して自分の中にある「ひび割れ」を発見することもありますね。自分の中に何があって、何がないのかを再確認しています。夫は香港系のアメリカ人です。そのせいか、私の子どもたちはアジア系の子と仲良くなることが多いんです。

 

今住んでいるオハイオ州は夫の生まれ育った場所で、私の子どもたちは、夫が通ったのと同じ小学校に通うことになります。そのような「地元感覚」は私にはありませんが、子どもたちにとってきっと良いことだろうと思っています。この夏に家族で東京と香港へのアジア旅行をしますが、これは子どもたちに「世界は広い」ということを知ってもらいたくて計画しました。  

 

 

—幼少期や思春期の「移動」があった人生について、今どんな思いを抱いていますか?  

 

高校生の頃、祖母に「ハードだったわね」と言われ、その時に初めて、移動の多かった自分の人生が「ああ、確かにハードだったのかも」と気がつきました。それまでは忙しくて、そんなことを考える暇もなかったんです。兄は行く先々で友達作りに苦労していたので、私は「イージーワン(手のかからない子)」でいなければならなかったというのもあります。例えば、修学旅行を楽しみに準備していても、その前に移動することになって行けなくなるなど、そういった「未来が消えること」に慣れてしまった側面がありますね。

 

何かが得意だなと思っても、「はい、上手にできたね、はい、全部消えるからもう一回作ってね」という流れ。私の人生はリビルド(再構築)が多かったです。その当時にもっとセラピーやカウンセリングが身近だったらよかったなという思いや、両親にもっと色々と教えてもらいたかったという思いもあります。ただ、その中でも、母はいつも前向きに私たちの人生がどんなにユニークで素晴らしいものかということを教えてくれていました。

31歳で再訪した、幼少期を過ごしたマレーシアでの家は今もそこに民宿として存在していた。自分が記憶を書き換えていた部分もあったことに気がつく大切な機会になったという
31歳で再訪した、幼少期を過ごしたマレーシアでの家は今もそこに民宿として存在していた。自分が記憶を書き換えていた部分もあったことに気がつく大切な機会になったという

 

—苦労が多かったと思いますが、とてもポジティブで朗らかなお人柄のように感じます。意識していることは?  

 

心の満足を学び、感謝できることを探すことです。マレーシアで学んだことが多いのかもしれません。マレーシアは世界有数の、産後うつ病患者の少ない国だそうです。産後のお母さんへのケアには、素晴らしい制度がたくさんあります。そういった視点を持っているのは大きいですね。フレッシュなものを食べるのが好きということもあるかな? これもアジアでの生活から学んだことです。マンゴスティンやパパイヤ、出来立てのトーストを食べて育ったので。リラックスした環境でヘルシーな食事を摂るのを大事にしています。それから自然を楽しむこと。オハイオには海がないので、それならばと、緑にフォーカスするようにしています。そして何より大切にしているのが人との関係です。今後、また移動することがあるとしたら、それは何かしら誰かのために動くことになると思います。最近は詩を書くことに出会いましたし、自分を癒す方法を自分の中に持ち合わせておくことは、大事ですね。 

 

私はテキサスや、これまで住んだどの土地も「家」とは感じないので、そういった「ホーム」を感じられる場所がある人は、それがギフトなんだと思います。私がもらったのは、それとは違ったギフト。今でもいわゆる白人コミュニティがあると「ああ、私、うまく馴染めるかなあ」と思ってしまいますが、それでもいいんです。私はどこにいても「ピース」(心の安定)を見つけられるので、これからはそれを活かして、産後うつになってしまうママなど、他の人の役に立っていきたいと思っています。

日本へ家族で旅をした中で感動したのは、寿司屋での緑茶サービス(左)、人生で一番美味しいパスタ(中央)、ホテルの健康的な朝食「その土地の人が食べている新鮮なものをいただくのが一番!」(右)

 

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