2011年からシンガポール、2018年からタイ、2021年から再びシンガポール、そして2024年からアメリカ・ニューヨークで駐在生活を続けている、永井ファミリー。啓太さん、和代さん夫妻が日本への帰国を意識しながらも海外移動を重ねる中で心がけてきたことや、今年チアダンスで全米大会(ナショナルズ)に出場した姉妹、現在中学校2年の茉名さんと小学校4年の咲くらさんに勉強や課外活動について、話を聞いた。
(取材・執筆 Makiko)
「やっとブレーキを外して」姉妹でチアの全米大会に出場
—今年フロリダで行われたチアダンスの全米大会に、茉名さんと咲くらさんどちらのチームも出場し、茉名さんのチームは準優勝されたとのこと。シンガポールから引っ越して間もない中でおめでとうございます。
和代:二人とも年長時にシンガポールでチアを始めました。でも長女の茉名は、タイ駐在中はチームや先生をうまく見つけられず体操だけを続けていました。二度目にシンガポールに戻った際に、次女の咲くらがチアを始めたのをきっかけに、茉名もチアを再開しました。その時茉名は小学校4年生。タイで日本人学校からインターに切り替えて、シンガポールでは本格的にインターナショナルスクールの勉強が始まったところでしたし、さらに日本での中学受験に向けて国語と算数の勉強をし、英語の塾にも入っていました。「いつか帰国する時のために」と考えて、その時期はチアで遠征の話があっても参加を見合わせていました。
茉名:受験勉強をしていた時はずっとママと喧嘩していたよね。今は家族が大好きだけど、あの時だけはよく口論になっていました。
和代:2度目のシンガポールからニューヨーク行きが決まった時は、まさに中学受験に突入する時期でした。でもその時、子どもたちが続けていたチアの本場に行けるという喜びが強くありました。引っ越しのたびに習い事のキャリアが途切れてしまったり、いい先生を見つけてあげられなかったりしたことが、これまでずっと気になっていたんです。やりたいことに「ブレーキ」をかけてしまっているような。だから、高校受験までの時間を使って今度こそは思い切りチアをさせてあげたいと、引っ越す前からニューヨークでのチア事情を調べました。結局全米を目指しているチームが住んでいる地域にあることがわかり、いろいろなご縁が繋がっていきました。
咲くら:私はシンガポールで始めたチアをニューヨークでも続けられて、ナショナルズに出られたのが嬉しかったです。バク転を成功させて、次のメダルも目指したいです。

成長できる海外駐在を希望し続ける
—永井さんご一家は2011年から一度も日本に戻らずに海外駐在を続けているのですね。
啓太:初めての海外駐在となったシンガポールはいわゆる「駐在の初心者コース」だったので、やりやすく、学んでいきました。その時から、海外にいる方が、自分が成長できるという思いで海外希望を続けています。家族にはここまで付いてきてもらって、ありがたい気持ちでいますね。
和代:最初のシンガポール行きが決まった時は、私は新卒から勤めていた会社を産休中で、復帰予定をしていた時でした。お宮参りを終えたところで夫が先にシンガポールに行ってしまい、幼い茉名を一人で連れての渡星はとても不安でした。ただ、その後退職を選んでからは、毎日新鮮な気持ちで現地での生活を楽しめました。友達も増え、咲くらを産むころにはどこの産院が良いかなどと色々と教えてもらえるような環境だったので、不安なくシンガポールで出産することもできました。
—学校はどのように選びましたか?
啓太:私のポリシーとして、小学校低学年は日本語を学んでほしいと思っていました。海外にいるからこそ、日本語の読み書きをしっかり学んで、どちらの言語もおろそかにしてほしくないと。茉名はタイで日本人学校に入学しましたが、コロナ禍に対応が遅いのが気になり、3年生からインターナショナルスクールに切り替えました。
茉名:日本人学校は、コロナ禍はオンライン授業が続いていたので、妹が小規模のインターナショナル幼稚園で友達と遊んでいるのを羨ましく思っていました。インターナショナルスクールに移って友達と交流できたのが嬉しかったのを覚えています。
—シンガポールにはタイ駐在を挟んで2回駐在されています。懐かしい気持ちで受け止められたのではないでしょうか。
和代:特に子どもたちが喜んでいましたね。咲くらは生まれがシンガポールだということもあってか、そこを自分が「帰る場所」と思っているので、嬉しそうでした。タイは自由に外を歩くのが難しいので、シンガポールでまた気軽に外を楽しめるのがありがたいと思いましたね。
啓太:シンガポールでも結果的に明るい校風の学校に二人とも入れましたが、一点難しいと感じたのは、日本の異動は4月が区切りのことが多いのに対し、インターナショナルスクールは9月始まり。異動が出てから学校を探しても募集が終わっていることがありました。
茉名:タイの後は日本に帰らなくちゃいけないかと思っていたので、シンガポールにまた戻れると知った時は飛び上がるほど嬉しかったです。シンガポールでの新しい学校では、すでにグループができていて、すぐには馴染めませんでしたが、次の学年に上がるころにちょうどコロナも明けて、そこでとても良い友達に出会えました。
咲くら:シンガポールで入った日本人学校はとっても楽しかったです。ギターの上手な先生や、写真を撮るのが上手な先生など、面白い先生に恵まれました。私はシンガポールが大好きなので、いつかまた戻りたいです。
和代:私も2度目にはフルマラソンに挑戦したりイベントに出たりと、楽しめました。育児や引っ越しに追われてできていなかった運動を習慣化できて、受験期にはサポートのストレスをランニングで解消しました。
「アンサーテンティ」(不確かさ)な経験
—チアで忙しいと思いますが、勉強との両立はどうしていますか?
茉名:土曜日は試合が入ってしまうので、土曜補習校ではなく、国語と数学は平日に塾に通っています。学校の中では英語で話しますが、学校の外では日本人の友達とよく遊んでいます。
咲くら:私は日本語の本を読むのが好きです。友達も日本人が多いです。
啓太:子どもたちはどの学校も初日から「楽しかった!」と帰ってきてくれました。新しいところで生きる力を見ると本当に柔軟だなと感じます。それには助けられていますね。
茉名:どういたしまして(笑)
啓太:これまでずっと家族みんなについてきてもらってきたのですが、高校に関しては最初から最後まで同じところで過ごしてほしいと思っています。私が駐在員なので、帰れと言われたら学年途中でも帰らないといけなくなります。そのため茉名の高校に関しては、入学時に日本に帰国してもらおうと思っています。
茉名:本当はできるだけここに残ってチアも続けたいです。でも、アメリカで高校卒業までいることが難しいのなら、日本での青春も謳歌してみたいです。これまでの学校はいつも途中編入だったので、グループが出来上がっているところに途中から入らないといけなかったんです。だから、入学から卒業まで同じ学校に行ってみたいです。
—これからの展望を教えてください。
啓太:アンサーテンティにいること自体はしんどいのですが、それがいい経験になっているのかもしれません。こういったしんどい経験こそが将来に生きると信じて、そういった不確かさを問題だと捉えないでいいのではないかと私は思っています。
茉名:たくさん友達ができても、別れが来てしまいます。そのまま疎遠になってしまう人もいます。そんな中でも、1年に1度しか会えなくても、少し電話したいと思ったら話せる友達がいるというのが貴重だと思っています。そういった人との繋がりを大切に思っています。
咲くら:私はシンガポール生まれということもあって、いつかシンガポールには戻りたいですが、日本語が好きなので、今度日本に戻ったら日本の勉強を頑張りたいです。
和代:自分に関しては、子ども連れの海外駐在帯同なので、どうしても自分のキャリアはこれまで置いてきてしまいました。夫を仕事に送り出し、子どもたちに合う学校や習い事を探し出して、送り出す。自分のことはその後になってしまうので。これからは点と点になっていたキャリアを繋げていきたいです。
