前記事(2025年3月17日公開)で話を聞いた高政マリアさんの長女の恵理佳さん(メイン写真:左から2人目)と次男の航さん(メイン写真:右から2人目)。日系2世としてアメリカで生まれ育ちながら、日本語補習授業校に通い、大学時には二人とも宣教師として1年半を日本で生活した。現在、恵理佳さんは小学校教員を育休中、航さんはオハイオ州で日系企業に勤めている。アメリカで日本語や日本文化を学ぶ中でアイデンティティとどのように向き合ってきたのか、現在の生活や将来のことなどについて、話を聞いた。
(取材・執筆 Makiko)
家族で始めたBMXで全米へ
—お二人とも小さい頃から他のご兄弟と一緒にBMX(自転車競技)で活躍されていたと伺いました。
恵理佳:元々は父がやりたかったことだったそうです。2歳年上の兄の直輝(メイン写真右)が5歳で始めるのとほとんど同時に、4歳くらいから始めました。5歳からは選手としてレースに出ています。最高で全米3位になりました。10年間続けましたが、高校に入ると他の課外活動で忙しくなり、引退しました。
航:僕は何歳だったんだろう? 2歳前? 覚えていないな(笑)。三輪車で参加し始めていたそうです。僕は全米のオープン戦で4位、地域や州では1位で、最後の頃はスポンサーもついていました。でも、結果を出さなければいけないというプレッシャーを感じ始めたのと、足の怪我もあり、高校生になる頃に2014年で引退しました。
恵理佳:学校の後にみんなの自転車を3、4台車に乗せて練習に行っていたよね。みんなで取ったトロフィーが家にいくつもあって、学校のショウ・アンド・テルの時間にはそれを持って行って話をしました。
.png)
右:左手前が航さん
—他にはどのような課題活動をされていましたか?
恵理佳:私はマーチングバンド、コーラス、ドラマクラブなどをしていました。
航:僕はその後はコーラスと陸上を頑張りました。体を動かすのはいつも好きなので、ジムに行ったりバスケをしたり。補習校のバスケ部でコーチも務めました。
.png)
.png)
嫌々通った補習校、大学と伝道活動
—恵理佳さんは中学卒業まで、航さんは高校1年生まで補習校に通われましたが、どのような心境で通われていましたか?
恵理佳:土曜日は現地の友達が遊んでいる中で自分だけ補習校に行くのが本当に辛くて、私はずっと、嫌々通っていました(笑)。でも、今でも繋がっているような友達もできたし、日本に遊びにいくと会える友達もいますので、今では「通えてよかった」と思っています。ただ、通っている間は泣きながらでしたね。日本語は読み書きが難しくて、苦手意識がずっとありました。
航:同感です(笑)。でも、僕は友達に本当に恵まれていたので、友達に会うために通えました。今は日系企業に勤めていて、日本語の書類をよく使うので、日本語の読み書きをもっと勉強しておけば良かったと思っているところです。でも、今からでも勉強し続けたいと思いますし、勉強し直す土台があってよかったと感じています。
—お友達には、どのような方が多いのでしょうか?
恵理佳:高校以前は現地校の友達ばかりでした。でも、大人になると、日系の人とはすぐに打ち解けられるとか、仲良くなれることがあることがわかりました。今は分け隔てなくどんな人とでも仲良くできます。これは、日本に一度しっかり住んでみたからかもしれません。
航:僕は現地校の友達と外で遊ぶことはあまりなかったんです。学校の外ではほとんど日系の友達と遊んでいました。今はみんな他の州に行ってしまいましたが、一緒に育ってきた大切な仲間です。
—恵理佳さんはブリガムヤング大学教育学部に進学、大学時代に教会の宣教師として日本で活動された後、アメリカの現地小学校の教員になられたのですね。航さんも同じように宣教師として日本に渡られ、そこから一度ポルトガルに引っ越してから、またオハイオ州に戻られたのですね。
恵理佳:高校生の時に周りの友達にキリスト教の子が多く、影響されて興味を持ちました。それで同じような信仰を持つ人がいる大学を選びました。宣教師として日本に住む経験を持てたのは、本当に良かったです。私にとって、これまで習ってきた日本語や日本文化が初めて意味を持つことに気づいた機会でした。アメリカに戻り、結婚相手の仕事の関係でシアトルに引っ越し、小学校に先生として勤めました。長男を出産後、実家の近くに住みたいと思い、オハイオ州に戻りました。 小さい時から母が家でサークル活動をしていたのと、兄弟が多いこともあり、子どもと接するのが好きで、自然と教員を目指しました。
航:僕も宣教師活動で日本に行って、実際に日本語を使う機会を持てたのは大きな出来事でした。僕は日本でブラジル人の妻と出会い、妻のために一度ポルトガルに引っ越したんです。コロナ禍だったこともあり、ポルトガルからオンラインでブリガムヤング大学アイダホ校に入学し、アプライドテクノロジー学部を卒業しました。その後、育児をする時にはやはり家族の近くにいたいと考えて、オハイオ州に戻ってきました。

やっと、「自分は自分」と思えるように
—アイデンティティで悩むことはありましたか?
恵理佳:私はずっと「アメリカ人になりたい」と思いながら育っていたんです。国籍はアメリカですが、顔も血も日本人。自分が日本人であるということを周りになるべく知られたくないというような気持ちがありました。今ではアメリカでもお寿司やアニメが流行り日本文化に親しみがある人もいますが、私が小さい頃は周りがピーナッツバターアンドジェリーのサンドイッチを持ってきている中で一人だけ日本式のお弁当を持って行くと変な目で見られているような気がして、周りの目が気になって仕方がありませんでした。
それが変わったのは、19歳で宣教師として日本に住んでからです。英語を教えたり、奉仕活動をしたりしました。そこで日本という国を実際に経験して味わってみて初めて、「日本の文化は私の一部」だと思えました。その時にそれまでずっと反発していたものをやっと受け入れることができました。受け入れた後には、2カ国語できることが、よりたくさんの人と繋がれる強みになるのだと知りました。
航:僕は特にアイデンティティで悩むということはなかったです。でも、言葉としては英語の方が得意なので、補習校で出会った、英語の得意な日本の友達の存在が支えになりました。いつもその友達が自分を理解してくれていましたので。アメリカ人と関わる時と日本人と関わる時に自分の態度を微調整するのが難しい時期もありましたが、今ではどちらの文化も大切です。

右:家族みんな大好物の、日本の屋台風メニュー
—どんな育児をされたいですか?
恵理佳:夫のマイク(メイン写真左)も日本で宣教師をしていたおかげで、日本語や日本文化に精通しているので、子どもにも日本の文化をしっかり伝えたいと思っています。アメリカの文化は自然と入るでしょうから、家では日本語を話すようにして、日本人の友達も作ってほしいです。家ではなるべく日本語の絵本を読むようにしたいですね。今はフルタイムで家にいられる時間を大事に味わっています。いずれ、子どもたちが入学したら私も教員に戻るのを楽しみにしています。
航:妻がブラジル人なので、ブラジルの文化も知ってほしいと思っています。3カ国の文化を教えていくのはとても大変だとは思いますが……。どれも大切にして、楽しく、絆の強い家庭を築きたいです。
—置かれた環境で悩む人へメッセージをお願いします。
恵理佳:アメリカに住んでいると、いろんな国の人と話すことがあります。いろんな話を聞くと、無数の形の考え方や幸せの形があることがわかります。自分の自由を自分で見つけるのがアメリカ。自分は、他の人と違っても大丈夫なんです。自分は自分だから、私もそのままの自分を大切にしたいです。
航:やりたいことにはどんとぶつかって試すことが大事だと思います。僕も予定なくポルトガルに渡るなど色々ありましたが、それが自分のやりたいことだったので、その経験を大切に思うことができました。失敗してまた立ち上がって改善して、そうやって歩むのが人生なのだと思います。

