現在高校3年生の中村遙希さん(写真左)と高校2年生の瑞希さん(写真右)は、2011年から2015年と、2019年から現在までの2度、いずれもアメリカ・オハイオ州で父親の赴任に同行して暮らしている。2度の海外生活で感じてきたカルチャーショックやフラストレーション、友人の作り方、スポーツや勉強、進路のことについて、話を聞いた。
(取材・執筆 Makiko)
一番大変だったのは、日本に戻ったとき
—お二人は5歳と4歳の時にお父様の1度目の駐在同行でアメリカに来ているのですね。その頃のことは覚えていますか?
遙希:僕はヘマばっかりしてたんですよ。自分の周りで何が起こっているのかわからないから、学校のものを持って帰ってしまったり、宿題や持ち物がわからなかったり。帰国寸前の小学校3年生くらいまでずっとダメだなあって思っていました。ただ、日本人が多い学校だったので、友達はたくさんいました。
瑞希:僕はプリスクールで渡米したので、ケアが手厚かったし、少しずつ慣れていけました。日本人の友達が多くて楽しかった記憶がたくさんあります。
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「1度目の駐在時代は学校から持ち帰るプリントを端から端まで和訳して、二人の幼児のお世話をしながらの妊娠、出産、育児でした。その頃は何も余裕がありませんでしたが、今ではなんでも子どもたちに頼れるようになりました」と、母のあずささん
—小学校3年と小学校2年で栃木県さくら市に帰国されますが、いかがでしたか?
遙希:あれは大変でしたね。体育の時に教室で男女一緒に着替えることに驚きました。あとは、掃除の仕方がわからなかったです。「前習え」も知らなかったですし。
瑞希:僕もこの時が一番大変でした。勉強は補習校に通っていたこともあり特に苦労はありませんでしたが、卒業式の練習の時に生徒がずっと立っている意味がわからず「なんでこんなことをしていないといけないんだろう」って、フラストレーションを感じましたね。
—そのようなカルチャーショックにはどのように対応しましたか?
遙希:日本は楽しいなって感じる場面が増えて、受け止めていった感じです。
瑞希:オハイオ州から栃木県に戻る子は多いので、僕は同じクラスにオハイオ州からの帰国子女がすでに二人いたんです。その子達と仲良くなって、遊ぶ中で馴染んでいくと、違和感があっても流していけるようになりました。
—小学校6年と小学校5年で再び同じオハイオ州に渡ることになりますが、この時はどんな心境でしたか?
遙希:僕は少し悲しい気持ちもありましたが、またアメリカの友達に会えるという喜びが大きかったです。
瑞希:僕は正直なところ、行きたくなかったです。せっかく友達がたくさんできていたので、日本に残りたい気持ちが強かったです。
スポーツを中心にコミュニティを広げた2度目のアメリカ
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—約4年ぶりに再びアメリカでの駐在に同行することになり、同じアパートに引っ越し。
遙希:場所的にはすごく懐かしかったです。ただ、今回は1学年下げて編入したので、同級生と学年が違って、友達はゼロからの出発になりました。
瑞希:僕も、前回は駐在で来ていた日本人の友達が多かったので、以前からの友達はもうほとんどいませんでした。
—アメリカの学校の6年生と5年生に入りましたが、英語や勉強はどうでしたか?
遙希:友達との日常会話には困らなくても、勉強や学校のことでわからないことはまだたくさんありました。
瑞希:EL(英語学習クラス)に1年間入ったので、そこでまた日本人の友達をすぐに作って馴染めました。でも学年が以前より上がっているので読み書きが難しいなと感じました。翌年からコロナで学校がオンラインになったこともあり、友達とも遊べなくて、不満でしたね。コロナが明けて学校やクラブ活動ができるようになってから、ようやく色々と軌道に乗せることができました。
遙希:コロナ禍の間、僕は日本の友達とオンラインゲームをしていたけど、瑞希はまだ携帯やタブレットを持っていなかったから、何もできなくて辛そうだったよね(笑)
—お二人はスポーツを色々と経験してきているそうですね。
遙希:1度目のアメリカ時代に補習校でサッカークラブに入っていました。日本に戻ってから陸上に出会い、サッカーと並行してやっていましたが、2度目にアメリカに来てからは陸上とクロスカントリーの二種目を今もずっと両立させています。
瑞希:僕は遙希ほど熱心ではなかったけれど、補習校のサッカーから日本でもサッカー。日本では友達に誘われて入ったドッジボールとバスケットボールの習い事をすごく楽しんでいました。それがアメリカ行きを渋った理由でもあります。2度目にアメリカに来てからは遙希と同じように陸上とクロスカントリーをしていましたが、勉強にシフトするために去年で辞めました。
遙希:父が補習校のサッカークラブのコーチをしていたので、自然と二人ともサッカーを始めました。でも、僕は日本で陸上という、「走ること」に自分から喜びを見つけてからは、それが大好きになりました。走ることには言葉もいらないし、自分との戦いだから。スポーツを通して英語も上達したし、大事な仲間もできました。
瑞希:アメリカではスポーツはシーズンごとに変えられるし、いつからでも始められる。僕は今はオーケストラでバイオリンを弾いていますが、学校を通じて無料で楽器を教えてもらえることや、いろんなスポーツに挑戦できるのはアメリカのとても良いところだと思います。
—現在お二人は12年生と11年生ですが、勉強では何が大変でしたか?
瑞希:僕はライティングが大変でした。数学は、日本の勉強をしていれば、アメリカでは余裕でできます。補習校は日本人の友達に会うために今も続けています。
遙希:確かにアメリカの数学は余裕。僕はアメリカでは歴史が大変でした。日本でやっと都道府県を覚えてきたのに、今度は歴代大統領を覚えるのかあって。僕は土曜日に陸上のレースが入ることが多くて、補習校は中学校3年で辞めたんです。それもあって、今は日本語より英語の方が得意なので、特に英語での勉強に不自由はないです。日本語は、漢字を書くのは苦手ですが、読むのは問題ないです。これは家にたくさんあるお母さんの少女漫画を読んでいたおかげですね。
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それぞれで進める、将来への道
—進路はどのように考えていますか?
瑞希:僕は5歳くらいの時から将来の夢が変わっていないんです。2歳の時に買ってもらった動物図鑑がきっかけで、獣医師になりたいという夢があります。日本の大学受験を目指しています。
遙希:僕は車が好きなのでエンジニアがいいなって思っています。今の陸上の仲間たちと一緒にアメリカの大学に進みたいです。
—お二人でずっと一緒に歩まれてきたと思いますが、ここで分かれてしまうのですね。どんな心境ですか?
瑞希:アメリカからの帰国子女が理系で日本の大学に進むというのはそもそも珍しいようなのですが、昔からの夢なので仕方がないです。一人でも頑張ります。暮らしやすさでは日本かなと思い、大学は日本を希望していますが、アメリカの国も人も好きです。日本は異質なものに厳しいけれど、アメリカはいろんな違いに対して優しいなって感じます。
遙希:アメリカで作ってきた友達と一緒に卒業して、大学に進んで、こちらで就職していきたいです。自分で作ってきた道なので、この先もここで続けていきたいです。僕の家族は駐在なので、父が帰任になるとビザを変えるとか学費が跳ね上がるとか、色々と難しい事情になるのはわかっていますが、それでも僕にとって違和感のない未来はここにあると思うんです。いつか家族ができたら子どもと一緒に走りたいしな~。
—周囲に馴染めないで悩んでいる子たちにメッセージをお願いします。
遙希:僕のおすすめはやっぱりスポーツ。なるべく日本人で群れないでチャレンジするといいです。あと、来る前に少しでも英語に触れておくといいと思う。
瑞希:どこかのコミュニティに入るといいと思う。日本人の有無に関わらず、周囲と関係を深めていくことが大事です。そうすることで孤独感も薄れるし、英語も上達しますから。
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遙希さん「確かに日本の茄子は美味い。でも肉はアメリカだな、大きくて分厚くて」
二人ともアメリカのお菓子は甘すぎるのでほとんど食べないのだそう