保育の醍醐味を噛みしめて、高校留学から歩んだ道のり
2025年3月17日
イマドキの海外生活

保育の醍醐味を噛みしめて、高校留学から歩んだ道のり

アメリカ・オハイオ州に暮らす高政マリアさん(メイン写真:赤の半被姿)。東京に生まれ、高校2年時にアメリカ・カリフォルニア州に留学。その後アメリカで進学、結婚し、男女3人ずつ6人の子を育てながら、広く地域の子どもたちの日本語保育・教育に関わってきた。現在はコロンバス日本語補習授業校の小学1年生教員と、家庭保育サンシャインきっずにて未就学児の保育士を務める。自身のバイリンガル育児経験、17年半に及ぶボランティアでの日本語グループ、補習校教員としての経験などについて、話を聞いた。

(取材・執筆:Makiko)

とんとん拍子に叶った「留学したい」夢と、保育との出会い  

—高校2年時にカリフォルニア州、3年時にはユタ州に留学しているのですね。

 

英語が堪能だった父に小さい頃から英語を教わっていました。中学校に入り英語の先生からアメリカに留学している教え子の話を聞き、私も留学して、国際線のキャビンアテンダントになりたいと考え始めました。書店で留学情報を入手して両親に伝えると賛成してもらえ、とんとん拍子に留学に至りました。

 

ただ、いざと渡米してみると、そこでは自分の思い描いていた留学生活は送れなかったんです。カリフォルニア州は都会ということもあり、移民が多く、ESLがしっかりしているが故に、自分がイメージしていたようないわゆる白人の「アメリカ人」とはなかなか友達になるのが難しかった。今考えると、それが「アメリカ」ではあるのですが、私としてはアメリカに馴染めなかったという不完全燃焼感がありました。元々は日本に戻って復学する予定でしたが、両親の後押しもあり、もう一年、今度はユタ州に留学することになりました。ど田舎です(笑)。留学生は私一人で、周りの子は素朴で純粋な人ばかり。週末に遊ぶことといえば、家で一緒にディズニー映画を観ることくらい(笑)。ここで英語がよく伸びました。

渡米2日目にカリフォルニア州でホストファミリーとレストランへ(左) 高校では合唱部に所属。先生の口の開き方や周囲の音を真似て、アクセントを正した(右)
左:渡米2日目にカリフォルニア州でホストファミリーとレストランへ
右:高校では合唱部に所属。先生の口の開き方や周囲の音を真似て、アクセントを正した

 

—大学では心理学を専攻されています。

 

ホストファミリーに「キャビンアテンダントになりたいと思っている」と話したら、「あなたは子どもが大好きでしょう、教師に向いている」と言われました。確かに幼稚園の卒業アルバムにも「夢は幼稚園の先生」と書いているんです。教壇に立つのはちょっと気が引けましたが、スクールカウンセラーはいいかもしれない、と思い、大学では心理学を専攻することにしました。音楽が得意なので、ミュージックセラピーはどうだろうかと。とてもいい環境の大学で、良い友達がたくさんできましたし、夫とも大学で出会いました。

 

 

—卒業後のプラクティカルトレーニングで保育士の仕事に出会われたのですか? 

 

大学在学時からキャンパス内の保育園でアルバイトをさせてもらっていました。子どもはとにかく大好きなので、ラッキーだなと思いながら働いていて、卒業後のプラクティカルトレーニングもそのまま保育園でさせてもらうことになったんです。その後結婚して通うのが遠くなってしまい、次は心理学の学位を活かして障がい者施設で訓練士として勤務しました。

大学キャンパス内の保育園でのトレーニング時代。「懐かしいなあ、それぞれのキャラクターをまだよく覚えています。あの子はとってもお転婆で……」と、マリアさん
大学キャンパス内の保育園でのトレーニング時代。「懐かしいなあ、それぞれのキャラクターをまだよく覚えています。あの子はとってもお転婆で……」と、マリアさん

 子どもを「バイリンガル」にするために

—長男の直輝さんをアイダホ州で出産して1997年に再びユタ州に引っ越され、そこで日本語学校を主宰することになったのですね。

 

ユタ州に引っ越すと、大学時代の友人が「日本語学校」で子どもたちに日本語や日本文化を教えていました。その仲間に入れてもらい、たまたまですが、そこの校長になり、オハイオ州に引っ越すまで3年ほど務めました。保護者の受けさせたい日本語のレベルへの温度差がそれぞれある中でなるべく和気あいあいと皆が楽しめるように、色々と工夫しましたね。私の子どもは「日系人」としてアメリカで育っていくことになります。その時に、日本語は日本語としてきちんと伝えたいと強く感じていました。子どもたちにはバイリンガルに育ってほしいという強い思いがあったので、常に「日本語を」って、頑張っていましたね。ユタは冬が寒いので、冬の間に一生懸命家で日本語を教えました。夏になると外に出て、英語が入っていくという仕組み(笑)。  

 

—長女の恵理佳さんと次男の航さんを出産され、2003年にオハイオ州に転居されます。

 

すでにあった幼児教室から声がかかり、スタッフになりました。そこに1歳児クラスがなかったので、ちょうど次女が1歳だったこともあり、私が別枠でボランティアのプレイグループ「さあくる」を始めました。幼児教室は主宰者が転居し閉園しましたが、「さあくる」の参加者は口コミで増え続け、最終的には週5日、午前午後にクラスを開催し、最多では1週間に120組以上の親子に参加をいただいた年もありました。

 

—三女の慧美さん、三男の和哉さんを出産しながら、この「さあくる」は17年半もボランティアで続けられたのですね。

 

元は、自分の子どもたちに日本語を伝えたいという思いがあるので、特にボランティアであることに違和感はなく、この間ずっと皆さんに来ていただいたことに感謝するばかりです。コロナ禍でもオンラインや青空教室の形で活動を続けました。家庭の事情から現在はボランティアではなく「親子教室、家庭保育サンシャインきっず」という形になりましたが、土台は「さあくる」で培ってきた皆様との貴重な経験です。

「さあくる」にはなるべく親子で参加してもらうことで、親子で楽しい時間を共有してもらいたいという思いがあった。活動内容はご挨拶、カレンダー、フラッシュカード、歌、制作、プリント、体操、読み聞かせ、季節行事など(左) 綱引きや玉入れなど日本の文化を取り入れた運動会(中) コロナ禍での青空教室。公園に小さい子どもたちが集まった(右)
左:「さあくる」にはなるべく親子で参加してもらうことで、親子で楽しい時間を共有してもらいたいという思いがあった。活動内容はご挨拶、カレンダー、フラッシュカード、歌、制作、プリント、体操、読み聞かせ、季節行事など
中央:綱引きや玉入れなど日本の文化を取り入れた運動会
右:コロナ禍での青空教室。公園に小さい子どもたちが集まった

 

—バイリンガル育児でぶつかる壁に、「子どもが嫌がるようになる」ことがあります。どのように対応すると良いでしょうか?

 

ある程度子どもの意思を尊重するというのも大切です。子どもによってバイリンガルが合う、合わない、というのは間違いなくあります。そんな時に子どもの発信するシグナルを感じ取るべきですね。

 

小学生の間は我が家でも金曜日はもう、「魔の金曜日」でしたよ。補習校の宿題の作文がなかなか書けないんです。次男なんて1時間私に向かって文句を言いながら泣き叫び、泣いた後に短いものを書いて持ってきて、それを私が直して彼に清書させる。そんな日々もありましたが、彼は友達に恵まれて高校1年生まで補習校に通うことができました。

 

補習校は、「行きたい!」と思って通える子が全てではないんです。それは特にアイデンティティの問題と関わってきているのだと思います。劣等感を味わうことが続けばそれは楽しいと思える経験にはなりません。そういう時に何かで繋いでいくというのが本当に難しいのですが、本人たちが自分から学びたいという意欲を持つまで励まして、お友達や環境を整えていくことが、親のできることでしょう。もちろん本人がやりたくてやれるのが一番良いけれど、なんとかしてそのやる気を引き出すのが、親。我が家の場合は兄弟がいるので、自分たちの経験から「補習校は続けた方がいいよ」とかってアドバイスをし合っていました。

 

バイリンガルが整うのには時間がかかります。言葉には段階があるから、子どもの言葉、中高生、大人の言葉。それぞれを常に学んでいかないといけません。   

 

 

一言では語れない、保育の醍醐味  

 

—平日に未就学児を保育し、土曜日には補習授業校の教員をされていますが、双方の視点からどのような発見がありますか?

 

未就学児と小学生というメリハリを持たせてもらえるのはとても良いです。1年生、2年生に繋がるように、しつけの面で意識しています。例えば、ひらがな、読解、書くこと、人の話を聞くこと。特に人の話を聞けるというのは学力に影響していくというのを感じます。順番に話をさせるなど、自立に向かっていけるよう、未就学児保育では気をつけています。 

 

—先生にとって保育、教育とは?

 

これは、一言では語れないです。これまでご縁のあった方には言葉で表現できないほど感謝の気持ちでいっぱいです。何年も日本語保育をしてきていますが、今でもシャワーを浴びている時などにフッとアイデアがひらめくんです。「あ、これやろう」って。週に何回もクラスがあるので、同じことをしても反応が毎度違うのが面白いんですよ。子どもたちがのめり込んできて、集中している時は心の中でガッツポーズです(笑)。その時の子どもたちのキラキラした目が、私にとっての保育の醍醐味です。子どもたちの笑顔に毎日触れられるのは至福の時間です。保育をしているときは私生活のことを全て忘れて、自分が洗われますね。保育、教育のない自分は想像もできません。

左:子どもたちに人気のパン作り 右:補習授業校の幼児たちと
左:子どもたちに人気のパン作り
右:補習授業校の幼児たちと

子どもと一生懸命、向き合ってほしい

—先生ご自身は育児で悩んだことはありますか?

 

性格的にそこまで悩むということはありませんが、長男を出産した時にフラストレーションはありましたね。すごくかんの虫が強い子だったんです。何をしても泣く子。保育士をしていたものだから育児に自信があったはずなのに、何で泣いているのかがわからないし、哺乳瓶ではなく自分が母乳を授乳するのがこんなに難しいというのも知らなかった。長男は幼児期には乱暴してしまうこともあり、その度に自分が責められるような気持ちで育児をしていた時期もありました。近所の人から「あなたが甘やかせすぎなんじゃないか」と言われた時に私の育児が間違っているのかとすごく考えたことがあります。その時に思ったのは、「母親が信じなくて、どうするんだ。私は彼を信じよう」ということでした。そのうちに長男は不器用さがいつの間にか取れて、すっかり頼もしく育ちました。保育士として訓練を受けたときに言われた、「子どもの目の高さまで下がって諭すように話しなさい」ということを今でも実践しています。

 

お母さんたちって、迷いながら育児していますよね。でも、きっと母親って、直感を与えられているものだと思うんです。その自分を信じることが大切です。

 

—育児をする保護者にメッセージをお願いします。

 

子どもと一生懸命向き合ってほしいなと思います。預ける時間ももちろんあって良いんです。ただ、家にいる時には会話をして、一緒に同じ時間を共有してほしい。例えば、下の子が産まれて大変だという時にも、上の子を育児に巻き込んで、みんなで一緒にその大変な時を共有してみる。貴重な時間を大事に過ごしてほしいです。

 

海外で育てる時に、日本語はある程度親が土台を作ってあげなければいけません。バイリンガル育児は永遠の課題で答えがないものだと思います。どちらかの言語に偏るのは自然なこと。日米を行き来していればどちらも言語的には上達するかもしれませんが、そうなるとアイデンティティの問題が今度は出てきますね。どちらの社会に行ってもパズルのピースが足りないような形になってしまいます。そういう時に大切になるのが、自分に対する自信ではないでしょうか。自己肯定感が育まれていれば、アイデンティティや、周囲の中で揺れることがあまりなくなってきます。その「自信を植え付ける手助け」をするのが保護者の役目かなと思います。子どもの人生の主役は子どもですから、脇役として、失敗も見守ってあげたいですね。

「さあくる」毎年恒例だった夏祭り。子どもたちとその友人たち、サークルを卒業した子どもたちがボランティアとして運営を手伝った
「さあくる」毎年恒例だった夏祭り。子どもたちとその友人たち、サークルを卒業した子どもたちがボランティアとして運営を手伝った
6人の子どもたちもそれぞれ家庭を持ち始めた。次号では長女の恵理佳さん(写真左から2人目)と次男の航さん(写真中央)に取材予定(2025年4月21日公開予定)
6人の子どもたちもそれぞれ家庭を持ち始めた。次号では長女の恵理佳さん(写真左から2人目)と次男の航さん(写真中央)に取材予定(2025年4月21日公開予定)