イタリア・ミラノにある日系物流会社で働く吉田紗希子さん。新卒の時に選んだ職種は警察官。その後インドネシアで就職、希望してイタリア支社へ。日本人バスケ同好会に参加するなど仕事以外の生活面でも充実した日々を送っていると言う。「はちゃめちゃなキャリアパス」と笑って語る、今に至るまでの経緯や、バイタリティの源について、話を聞いた。
(取材・執筆 Makiko)
我慢はやめて、下調べ、そして行動
—面白いご経歴ですね。まずは新卒で警察官になられてから海外に出るまでの経緯を聞かせてください。
大学時代、周辺で事件が起きたことがあり、外国人の友人数人が警察に話を聞かれました。その時に英語を話せる警察官が多くないことを知りました。小さい頃、警察官に安心感を覚えたことを思い出し、語学ができて、人のためになる存在に憧れて、新卒の時は警察官として入職しました。 しかし、入ってみると、聞いてはいたものの本当に厳しかったです。高校生まではバスケ部で鍛えられていたので我慢することに慣れていましたが、自由な校風の大学に通ううちに、そういった我慢をあえてしないことを選びたいという気持ちが強くなっていたんですね。「頑張って我慢したから」と自分自身を抑えることになる前に、1カ月で辞職しました。
辞めようと決めてからは大学で第2外国語として学んでいたインドネシア語をなんとか自分の強みにしていけないかと探っていました。当時のインドネシアは日系企業が進出し始めた頃で、よく調べてみると、進出したての日系企業で人材が不足していそうなことがわかりました。色々と資料を集めて両親にプレゼンをして説得し(笑)、語学留学したのちインドネシアで就職活動を行い、日系物流会社ですぐに採用されるに至りました。
—インドネシアではどのような仕事や生活をされていましたか?
日系企業同士の仕事が多かったので、仕事の仕方は日本的でした。飲み会や残業も多かったです。言語は日本語が主で、現地スタッフとはインドネシア語でやりとりしていました。英語はあまり使わなかったですね。日本人が少なかったので、入社間もないにも関わらず大きな仕事に関われたのが良かったです。
生活面では怖い目に遭ったこともないし、ドライバーさんもいて楽しい暮らしでした。一度、道を歩いていたらバイクにひき逃げされて、薄暗い病院で頭を縫うということがありましたけど(笑)。それも今では飲み会での良いネタです!
住んで3年経つ頃に、インドネシアの好きでない部分が見え始めました。次第にそういう部分ばかりが目に付くようになってきて、違う場所に行くことを考え始めました。
—その違う場所が「イタリア」だったのですね?
インドネシアでの上司が「次はどうしたいの?」と相談に乗ってくれました。「島国の物流しか知らないから、大陸の物流を知りたい。あと、ご飯が美味しいところ」と話し、イタリアのミラノ支社を紹介してもらうことになりました。EUブルーカードの申請には色々な条件がありましたが、幸運なことに物流という職種だったことや、3年以上の業務経験があることなどで要件を満たせていました。それでもビザの取得には8カ月位かかりましたし、イタリアに渡ってからも住まい探しなどで苦労しました。