日系企業に勤めるアメリカ人の夫の日本駐在に同行し、2010年から2011年、2012年から2014年(東日本大震災から半年間はアメリカに戻り、再び来日した)の計3年間を栃木県宇都宮市で過ごしたステファニーさん。当時、家族全員が日本は初めてで日本語も話せなかったが、子どもたちは日本の幼稚園に通い、自身は日本滞在中にキャリアチェンジのヒントを得たそう。海外赴任に同行した時の心情や、子どもたちのその後、現在のライフスタイルなどについて話を聞いた。
(取材・翻訳・執筆:Makiko)
家族で冒険を共に
■旦那さんが日本駐在の辞令を受けたときの心境から聞かせてください。
知らない文化を知ることができると思い、とってもワクワクした気持ちになりました。私は小さな町で生まれ育ちました。皆が同じような髪と肌の色をしているような町だったから、自分は外の世界のことを何も知らないような気がしていたんです。だから、こんな冒険をできる機会に恵まれて、とにかく嬉しい気持ちでいっぱいでした。その時はちょうど育児に専念していたので、タイミングも良かったですね。
■日本で生活する中でどんなことを発見しましたか?
日本で出会ったすべての人が親切だったことが第一の発見です。それから、「旬」という感覚を知った時には素晴らしいと驚きました。アメリカではイチゴが夏でも店に年中同じように並んでいるような、いつでも何でも手に入ってしまう環境が、季節と自分を遠ざけていたのだと気が付きました。春には桜を見てお団子を食べ、秋には柿を食べるなど、季節と自分が深く繋がる感覚が大好きになりました。夫の会社が用意してくれた一軒家の畳の部屋の香りも好きでしたね。 困ってしまったことも、もちろんあります。エアコンのリモコンの表示が漢字だから難しかったとか、天井が低すぎるとか、洗濯物を外に吊るすとか。あれはもうしたくないな(笑)。
■長女のモニカさんは3歳から6歳まで、長男のタイスくんは4歳の1年間、日本の幼稚園に通っていたのですね。幼稚園ママとしてはいかがでしたか?
夫の会社が付けてくれた通訳の方にいつも助けられていました。でも、私の、アメリカ人的な性格というのかなあ、そういうのがトラブルの種になることがしょっちゅうありましたね(笑)。私はヘアスタイリストだから(キャリアについては後述)、ついつい子どもを可愛く仕上げてしまうんですよ。娘の髪を思い付きでピンクに染めちゃうとか、ピアスとかね。「これは大丈夫よね?」って考えて使ったヘアゴムがレインボーカラーだったから、バスに乗った瞬間に先生に「ノー」って言われて取ったこともありました(笑)。制服って自分が着たこともないし、子どもに着せたこともないから、毎朝ルールを忘れてしまうんです。結局、細かな規則や、どの時間に何をするかというのは最後までわからず仕舞いで過ごしていましたね。でも、つまりこれは、誰かがいつも助けてくれていたということ。うまくできなかったことを含め、全てが良い思い出です。
■日本での経験は、ご家族にとってどんな影響がありましたか?
モニカは6歳でアメリカに戻りました。元々社交的な性格ではありましたが、誰かを助けることを絶対にためらわない子になりました。親切や手助けが必要だった自分というのを覚えているからです。してもらったことを、人に返しているのでしょう。今でもモニカは自分と違う人とも簡単に共感し合うことができますが、これはきっと日本で生活した影響だと思います。
タイスは、幼稚園に1年通っただけで、記憶はあまりないはずなのに、不思議なことに日本の味が誰より大好きなの! 今でも「ママ、お願い、味噌スープを作って」って言いますよ(笑)。夫は、文化や人間関係では素晴らしいものを得たと思います。家族でその経験を共有できたのもとても良かったです。ただ、仕事に関しては時間が長すぎるのと、彼は完璧主義なところがあるから、第二言語で仕事をするストレスが大きすぎたようです。日本は大好きだけど、仕事ではなくてプライベートでなら行きたいって思っているみたいですね。