東京海上日動火災保険賞

一つの奇跡

広州日本人学校(中国)
中2 淺井 千晴
     

 「パパが中国に転勤になるかも。」


 小学校卒業を控えた二月のある日。母から告げられた。私は驚いたがそれよりも父に会えなくなるのかと不安で怖かった。それから母に二つの選択肢を迫られた。父が単身赴任するか、それとも家族で行くか。地元が大好きで、父も大好きだった私にはこれほど苦しい選択はなかった。海外ということが気軽に地元へ帰ることや、父に会いづらくなるということを示していて、さらに私を悩ませた。


 それからあっという間に時は過ぎ、地元の中学校に入学した。その頃には父の転勤は確実になり、幼い弟たちにも告げられ、彼らも幼いながらにあの選択肢を迫られることになった。


 結局、最終的に家族全員で中国に行くという決断をしたのは、父と母だった。理由は、私が別室登校をし始めたことだった。環境を変えるには良いチャンスと父が考えたらしい。


 私は地元の中学校生活を楽しむことはほとんどなかった。体育祭の練習も文化祭の練習も、ほとんど参加しなかった。最後の二週間だけクラスに入ったくらいだった。それでも、父も母も通った地元の中学校は大好きだった。そこまで思い出はないけれど、大好きだった中学校を離れ、行くことになったのが広州だった。二ヵ月ほど先に父が広州に向かった。私はその二ヵ月でさえ寂しかった。二ヵ月後、家族で渡航するために父が帰ってきた。「パパ。おかえり。」私は弟と元気よく言った。その時ですら、あと三日で自分も日本を離れ、広州に行く実感が湧いていなかった。


 そして迎えた出発の日。寂しさと不安を胸に車で空港に向かった。初めて乗る国際線。弟にとっては初めて乗る飛行機。初めて行く海外。それだけでも胸がドキドキなのに、その土地に住む。不安で仕方なかった。


 広州には、思ったよりも早く着いた。「あっつ。めっちゃ蒸し蒸ししてるやん。」飛行機の外に出た瞬間、家族全員が言った。そして新居に向かった。想像よりもずっと大きいマンションで正直びっくりした。部屋に入るとその広さにも驚かされた。日本ではすごく狭いところに住んでいたからびっくりした。それから二日後には、初めての転校が待っていた。友達ができるかな。ちゃんと話せるかな。異国の地に来たというだけで頭がパンクしそうな私に、転校というさらに重い現実がのしかかってきた。だが、それは余計な心配だった。幼い頃から知っている友達が一人もいない教室であるにも関わらず、みんな優しく意外にもすぐ溶け込めた。


 父の考えで、私は転校したわけだが、楽しく学校に通うことができるようになった。母も専業主婦になりこの生活を謳歌している。弟たちも楽しそうだ。しかし、街中を歩けば中国語ばかり。中国語なんて一切知らなかった私たち家族にとって、これは致命的だった。ご飯屋さんで注文できない。店員さんに話しかけられてもまともに答えられない。言葉の壁がとても分厚かった。しかし、中国の人たちは自分からスマホの翻訳機能を使ったり、わかりやすいようにゆっくり言ってくれたり、よく行くお店では何を頼むか把握して単語だけで会話できるようにしてくれたり、そんな中国人の温かみを感じることができた。


 「日本ではあり得ないでしょ。」といったことも多く経験した。一個だけだと十元だけど、二個買うと十二元など、日本ではあり得ない価格設定をスーパーがしていたり、道路ではクラクションがさまざまなところで鳴り響き誰に鳴らしているのかすらわからなかったり、渋滞が起きてもみんな間を縫って進んでいくから少しずつ進んでいたり。私は、こういった異文化というものをすごく感じた。ただ、ここは中国で反日の人が多いため、なるべく日本語を話さないようにするなど、日本人とばれないようにするための工夫をせざるを得なかった。マンション内や学校はほとんど日本と変わらなかったが、一歩外に出ると別世界だった。話してはいけない。初めの頃はつけるキーホルダーやカバン、服にまで気を遣った。


 しかし、最近になるとそこまで気にする人は広州には少ないということがわかってきた。日本でもそうだが街行く人の話や服、ましてやキーホルダーなどみんな気にしていない。初めの頃にあった窮屈さは半年くらいでなくなっていた。


 やはり日本の友達と会えない寂しさや、言語が通じないもどかしさなども多く感じている。しかしそれ以上に、日本ではあり得ないようなことばかりで、刺激を楽しみながら生活することができている。


 私は、自分が中国という国を偏見の目で見ていたと深く理解した。中国はどこに行っても治安が悪く、日本人だと分かればお店から追い出され、街でも何かされるものだと思っていた。


 だが、住んでみると、中国の人々はこうすることが当たりまえとでもいうように、何も言わなくても困っていたら手を差し伸べ、言葉がわからない相手でも根気よく助けてくれる。これは実際にここに住んで、さまざまなところへ出掛けたり、さまざまな人と出会ったりしてきたからこそ感じられたことだ。


 そして中国に来たのはもちろん父に転勤の話がきたからだが、私が別室登校になってしまったことも一つの要因になっている。あの時は人生に希望を持てなかったが、この機会のおかげで私の人生は本当に大きく変わった。世界的な視点でニュースを見ることができるようになった。何より日本人学校で、似たような境遇であったり、私が考えもしなかった将来の夢や目標を持っていたりする仲間たちと切磋琢磨することによって、地元にいたらあり得ないくらいのスピードで、成長することができている。


 良い機会が来るのはいつかはわからないし、一度も来ない人もいるのかもしれない。そんな中で、このタイミングでこんな機会があったことを、私は奇跡だと感じている。こんな奇跡を今後の人生の糧にできるようにこれからも生活していきたい。