1982年に帯同家族としてタイを訪れて以来、大学や大学院で日本語教師をしたり、日本語教員養成プログラムを担当したりと、タイにおける日本語教育に黎明期より携わってきた深澤伸子先生。日本語を学ぶタイの学生がバンコク在住の日本人家庭にホームステイするプログラム「ルアムジャイ(心をひとつに)」を立ち上げたり、「バイリンガルの子どものための日本語同好会」の世話役、「タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会」の代表を務めたりと、言語や教育に関わる幅広い活動を続けられています。今回はそんな深澤先生に、タイで暮らす日本にルーツをもつ子どもたちが抱える問題や今後の課題について、話を聞きました。
(取材・執筆:小林美奈子)
タイで日本語教師に。その後、子どもの言語教育について幅広く活動
■タイで日本語教師になったきっかけを教えてください。
元々日本で小学校の教師をしていましたが、夫がタイに赴任することになり、1982年からバンコクで暮らすことになりました。友達はできなくはないのですが、ただひたすら本を読むことしかなくて。「これでは“ミセス深澤”でしかない。私の人生は何なんだろう」という気持ちに陥っちゃったんです。
そんな時、タマサート大学の非常勤の日本語教師の募集を見つけて応募しました。当初は教職以外の新しい可能性をタイで見つけたいと思っていたのですが。タイでは当時、日本人の日本語教師がほぼいない状態で、試験は面接だけで、受けた5人が全員合格(笑)。そこで日本語教育と出合い、翌年から常勤となって10年務めました。その後、国際交流基金で、タイの教育省との合同プロジェクトとして始まった高校の日本語教師プロジェクトを立ち上げから8年担当しました。タイの中等教育の日本語教育はここから始まりました。

■現在活動していることは?
日本語を学ぶタイの高校生が、バンコク在住の日本人家庭に2泊3日でホームステイするプログラム「ルアムジャイ(心をひとつに)」を2003年に立ち上げ、今まで1700名以上の学生と延べ約90の日本人家族が参加しています(コロナ禍のオンライン交流では約320名)。日本語を学ぶタイの学生は、日本人家庭に滞在することで日本語を使うチャンスや意味を得てやる気に。日本人のホストファミリーは、タイ人の学生と暮らすことでタイをリアルに感じ、また「タイで初めて人の役にたった」と実感することも多く、タイにいる自分を肯定することにつながります。学生がホームステイ後に会いに来てくれた、という話を聞くこともあり、豊かな関わりがお互いにとっての“生きる力”(エンパワーメント)になることを実感しています。
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そのほか「バイリンガルの子どものための日本語同好会」の世話役を務めています。日本にルーツを持つ子どもたちが日本語能力のレベルに関わらず、体験の中でことばを学ぶ会で、保護者全員で活動を計画し運営しています。
さらに複数の言語・文化環境で育つ子どもたちの幸せを考えたいと「タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会」を2006年に設立し、セミナーや勉強会、親子で参加できるワークショップなどさまざまな活動を行っています。ほかにも例えば「子どもたちの言語選択をどうするか」などのをテーマにした保護者向けのセミナーを国際交流基金と共同で開催したり、大学院で日本語を教えたり、日本語教育講座を開いたりもしています。
母語を軽視する教育に危機感がある
■タイに住む、日本にルーツをもつ家族が抱えている問題にはどのようなものがあるのでしょうか。
「せっかく海外駐在になったんだから、子どもには英語を」と考える親たちの多いことです。英語を重視し、母語(日本語)や現地語(タイ語)を軽視する傾向はインターナショナル校外が増え、学費が廉価になって拍車がかかっているようです。「子どもだからすぐに英語に馴染むはず」と考えるのは妄信です。なかにはスムーズにいく子もいますが、「先生の言っていることがわからない。友達の輪にどう入っていいかわからない」と泣いている子はたくさんいます。
「語学の学習は、早ければ早いほど習得が容易」と考え、早期教育に走る傾向はとても危険です。小さい時にこそ「物事を考え、判断し、将来を生きていく力」の基盤になる「体験」が重要です。ことばにしたい「体験」があり、ことばで伝えたい相手がいること。それが実は言葉だけでない子どもの成長そのものを支える基盤なのだと思います。そしてこの時期に自分らしく使えることばが「母語」なのです。豊かな母語の成長があってこそ様々な言語が獲得されていくのだと思います。

■具体的に、子どもが困っているのは、どのような状況であることが多いのでしょうか。
駐在期間の2~3年ではインターナショナルスクールでの英語の授業についていけないことが多いですが、それは当然のことなんです。学習に必要な言語の力獲得には5~7年かかるといわれています。
日本語の発達のある面が遅れるのはインターナショナルスクールに入れた時点で当たり前のことなのですが、親は驚きます。多くの親御さんは漢字を日本語力の指標とする傾向があるので、漢字学習に焦る気持ちが生まれます。結果として、子どもは学校では英語の授業についていけず、家では漢字の勉強を強いられるという子どもにとってとても苦しい状況が起こるわけです。
日本語を母語として育った子どもにとって、日本語はのびのびとリラックスできる言語世界なんです。そこで自分を表現し、自分らしくあることで学校で英語をがんばることもできるでしょう。でも、英語での授業もついていけない上に家庭でも日本語ができないと責められたら「どうしたらいいの!」となりますよね。子どものそんな気持ちをわかってあげてほしいと思います。
複数の言語世界で生きていることに自信を持ってほしい
■複数の言語世界で、追い詰められがちな子どもはどうしたらよいのでしょうか。
複数の言語世界で生きていると、子どもも親も自分を中途半端な存在だと感じてしまうことがあります。でもそれ、実はすごい資源なんですよ。「混ざって在ることは豊かさなのだ」という考えは「複言語・複文化主義」と呼ばれるものですが、複数の言語世界で生きている自分に気がつき、「私たちの人生はそこから始まる」としっかり意識し、そのような自分に自信をもってほしいと思っています。
私も含めてですが、海外にいる日本人というのは、今までの人間関係や仕事など、日本で培ってきたいろんなものを捨ててきているんですね。いわば「移動させられた家族」であり、「移動させられた子どもたち」。みんな「どの言語も100%でない」と思いがちですが100%なんてないんです。「混ざっている私たちは混ざったままでいいのか」という不安や心配を抱え、どうやって子どもの言語を育てたらよいのか、疑問を持つ方が多いんです。
でも「混ざっていることを言語の総合力としてみてほしい」と思っています。「タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会」のワークショップでは、自分がどこで誰と何語でどれぐらい関わってきたか、また自分と言語の関係、複数の文化に触れることによる影響を可視化するツールがあります。それを描くことで、人はそれぞれみんな違うことや、子どもがどんな現実を生きているか見えてきます。そして、混ざっている「私」が「私」。混ざっている言語の総体が「私の言語システム」と理解したとき、「中途半端」だと捉えていた自分が実は「資源的」なのだと感じられるようになるのです。そして、移動した経験を持ち、日本ではない異国で多言語に囲まれている私たちは、その違いを乗り越え、相互理解を可能にする「仲介能力」を備えている、そのように考えてみたらいかがでしょうか。



■「仲介能力」について詳しく教えていただけますか。
例えば、タイの地方の学生がバンコクに住む日本人家族の家にホームステイするプログラム「ルアムジャイ」での話ですが、タイの学生がトイレを使うと毎回ビシャビシャにすると、ある日本人のご家族が困惑していました。タイではタイルが敷かれたトイレが多く、きれい好きな人だと、床を毎回水で流すこともあります。学生はお世話になっているという気持ちもあり、掃除したんじゃないでしょうか。そんな時は、まずは「なぜ?」と自分から学生に聞いてみようと提案しています。そうすると「なぜ?」が「なるほど」に変わっていく…それが異文化理解だと考えています。
不可解と思われた行動は、実は自分の思い込みではないか。違う文化圏で育ってきた者同士が一緒に暮らしていくなかで、言葉に出さないとわかるはずがないじゃないですか。異文化理解を可能にする、伝え・聞き合う力が言語の能力のうちの「仲介能力」です。複数の言語と文化を経験した人は、この能力が高いはずです。
また、問題が起きた時にどう対処していくかも「仲介能力」です。例えば、ある学生がホームステイ先の家族に「ありがとう」と言えなかった時、「ハグしちゃえ」とアドバイスした先生がおられました。結果、ハグして双方が満足して学生は地方に帰ったのですが、ジェスチャーでも翻訳ツールでも何でもいい。それらを駆使して、表面的な言語能力に捕らわれず、コミュニケーションできることも「仲介能力」だと思います。
■異なる文化や言語の中で暮らす子どもたちには、どんな環境や支えが大切だとお考えですか。
子どもって誰か一人、自分に関心を持ってくれる人がそばにいるとがんばれるんですよ。また、子どもにとって第3者に会えるコミュニティはとても大切で、斜めの関係といいますが、子どもの成長にはとても大切です。なかなかそんなコミュニティがない場合は、スポーツや音楽、演劇、絵画など、さまざまな習い事で自分らしさが発揮できる場所を見つけるのも一つの方法だと思います。
「バイリンガルの子どものための日本語同好会」では、日本にルーツを持つ子どもが遊びや体験を通じて日本語を学んでいますが、親にとっても子どもにとっても、「自分らしくいられる場所」のようです。昔の日本でいう町内会や部活動みたいだと親たちは言います。同じような背景を持つ者同士が、自分の状況を説明しなくてもいい場所は、親にとっても心地よく、子どもにとって豊かな斜めの関係がある、そんな場所です。

仕事はメンバーがそれぞれ役割を持ち、対等であるように
■やりがいや仕事上の心がけを教えてください。
私がタイに来たころは、まだタイで日本語教育がほぼ行われてない時代で、切り拓いていくしかなく、またあらゆる課題に対応しないといけなくて、今振り返るとすべてがやりがいでした。何もないということは自由であることでもあり、おもしろい経験だったと思います。
仕事上の心がけは、グループでやっていることが多いので、それぞれが役割を持つこと。駐在や任期が終わって日本に戻る人も多いので、いつ人が入れ替わってもやっていけるよう、活動の理念の共有が最も重要です。そして、メンバーが対等であることを大切にしています
■40年以上タイに在住されていますが、改めてタイの魅力、好きなところを聞かせてください。
私が思うタイのいいところは、鷹揚で柔軟性があるところですね。例えばこちらが間違えても許してくれる。根にもったりしないところが‘あります。それから「この人は信用できる」と思った人はトコトン信用してくれます。その人の老後の面倒もみてくれるぐらい(笑)。おせっかいなほど世話やきであるところなど、タイに来て知り合いもいない私には大きな救いでした。
でも、鷹揚さを好む人もいればカチッとした方がいい人もいて、それは当然です。周りの人について、みんなから言われて価値を決めるのではなく、自分のなかでいいと思う価値観をそれぞれが見つけてほしい、そう思います。
■最後に海外子女やその家族へのアドバイスをお願いします。
アドバイス……難しいですね。親の無知と思い込みで、海外で暮らす子どもたちが追い詰められがちな状況を緩和したい、私の課題はそこにあると考えています。今回のインタビューを受けたのも、さまざまな活動を知ってほしいからです。タイにいらっしゃるご家庭でしたら、ぜひ、タイの学生を日本人家庭にホームステイさせるプログラム「ルアムジャイ」や、「タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会」、「バイリンガルの子どものための日本語同好会」など、気になる活動に気軽に参加してみてください。 タイ以外の国にでも、似たような組織があるところは少なくないかと思います。第3者に出会える場所を見つけることが子どもにとっても親にとっても、何か解決の糸口につながるかもしれません。
【プロフィール】 深澤伸子(ふかざわ しんこ)さん 新潟県出身、元小学校教師。1982年より帯同家族としてタイに在住し、タマサート大学の日本語教師に。その後、タイの地方の学生をバンコク在住の日本人家庭にホームステイさせるプログラム「ルアムジャイ」を立ち上げる。「タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会」代表、「バイリンガルの子どものための日本語同好会」世話役を務めるほか、駐在家族が抱える子どもの言語問題の解決に向けた糸口となるような保護者向けセミナーを国際交流基金と共同で開催している。






