「ケセラセラ」の精神で世界への挑戦を続ける ジュエリーデザイナー 中村穣さん
2025年2月17日

「ケセラセラ」の精神で世界への挑戦を続ける ジュエリーデザイナー 中村穣さん

スイス公文学園への入学を皮切りに、アメリカの大学、オランダの大学院と、約10年間を海外で過ごした中村穣さん。大学と大学院では、プロダクトデザインについて学び、日本に帰国後、2012年に自身のジュエリーブランドを立ち上げた。2016年に開かれた「伊勢志摩G7サミット」では、各国の首脳が身につけたラペルピンを手掛けるなど、国内だけでなく世界へとブランドのデザインを発信する。そんな中村さんに、これまで過ごした3カ国での経験やデザインのこだわりについて話を聞いた。 

(取材:ミニマル市川茜、執筆:ミニマル武藤美稀)

 

 

■中村さんは15歳の時に単身でスイスに渡ったとうかがっています。どのような経緯で渡航を決めたのかお聞かせください。

 

母からスイス公文学園の受験を進められたことがきっかけです。当時僕は地元である大阪の公立中学に通っていて、勉強があまり得意なほうではありませんでした。このまま地元の高校へ進学するよりも、環境を変えたほうが良さそうだなと母も自分自身も感じていたので、せっかくなら行ってみようという前向きな気持ちで渡航を決めました。母が留学の機会を与えてくれたので、「行けるなら挑戦しよう」と思い、受験まで必死に勉強しましたね。一方で父は、僕が高校の段階から家を離れ海外に行ってしまうのは悲しいと、泣きながら反対していました(笑)。

 

私自身は楽観的な性格だったので、海外での生活に対して大きな不安はなく、何とかなるだろうとしか考えていなかったですね。

 

 

■実際スイスに行って、現地の生活はいかがでしたか?

 

学校があるのは、人口が2000人ほどの小さな町だったので、大阪の都会的な環境に比べると刺激が少なく、そのギャップに驚きました。元々海外の音楽やスケボーといったカルチャーが好きだったのですが、現地に行ってみたらそういったものは少なく、ただ自然豊かなアルプスが広がっていました。

 

学校の寮での生活は、寮生活という特性上、ある程度の厳しさがありました。消灯時間や生活のルールがしっかりと決められているなど、最初のうちはその環境に慣れるのが難しく、ホームシックになって「帰りたい」と思うこともありました。でも、友達ができるにつれてだんだん楽しくなり、生活にも馴染んでいきました。 学校の周りにはアメリカンスクールや他のボーディングスクールがあり、そういった学校との交流も少しだけありました。世界各国から集まった留学生や現地の人と交流できたのは楽しかったです。

 

 

■スイスでの学校生活で、特に印象に残っていることを教えてください。

 

スイスはヨーロッパの中心に位置しているため、修学旅行のような学校行事でさまざまな国を訪れる機会がありました。先生が行き先を選び、生徒はグループに分かれていろいろな国へ向かうという形式で、自由度が高かったです。先生が決めたスケジュールで旅するというよりは、まるで自主的な旅のような感覚でしたね。ロンドンやニューヨークのような大都市を訪れ、服屋を巡るなど観光を楽しみました。スイスの田舎とは全く違う環境を、自分たちで計画しながら探索する経験はとても貴重で、今でも大切な思い出になっています。

 

同級生と旅をしたのも思い出深いです。春休みなど日本に帰るには短い休みを使ってスペインやフランスなど数カ国を訪れました。当時はインターネット予約が難しかったので、現地の旅行会社に行き、航空券や宿をブッキング。16歳や17歳という若さで、自分たちだけで見知らぬ土地を旅したのは大きな経験でした。当時の同級生とはいまでも仲良くしています。

来日中の同級生たちと
来日中の同級生たちと

 

■スイス公文学園を卒業後、なぜニューヨークの美術大学に?

 

次は海外の都市の中でも「都会に行きたい」という思いがあり、まずニューヨークの大学を考えていました。美術大学に決めた理由は、当時付き合っていた彼女の影響もありますが(笑)、元々アートやファッションが好きだったこともあります。 アメリカの美術大学だと1年次はアート全般を学び、2年次で専攻を決めます。自分には立体のデザインが向いていると感じたので、家具や車など立体物のプロダクトデザインを中心に学ぶコースを選びました。

 

 

■その後、オランダの大学院へ。オランダではどういったことを学びましたか?

 

アメリカから日本に帰国して、オランダの「デザイン・アカデミー・アイントホーフェン(DAE)」に入ったのは20代後半。好きなデザイナーの出身校であり、僕が注目していたコンセプチュアルなインダストリアルデザインの分野では世界で最も影響力のある学校であったため、そこを目指してオランダに渡りました。コンセプチュアルなデザインとは、いわゆるオランダらしいデザインのこと。前衛的なイメージです。

 

大学院では、家具をデザインするだけではなく、社会性やサステナビリティなどデザインの本質に迫り、論文を書くこともありました。制作で忙しい日々が続きましたし、大学院ではある程度自由がある反面、しっかり取り組まないと卒業は難しいというプレッシャーが大きかったですね。

 

僕の学年には20人ほどの学生が在籍していましたが、ヨーロッパやアジアなど世界各国から集まってきていました。高い志を持つレベルの高い学生ばかりで、彼らの作品を見て日々刺激を受けていました。同級生の中には、現在、業界のスターのように活躍している人もいます。

オランダのDesign Academy Eindhovenのカフェテリアにて
オランダのDesign Academy Eindhovenのカフェテリアにて

 

■ジュエリーデザイナーとしてのキャリアをはじめられたきっかけを教えてください。

 

学生時代はジュエリーデザインには触れておらず、本格的に活動を始めたのは30歳を過ぎた頃。大学院では、目の前のことで精一杯で、将来のことは何も考えていない状態でした。28歳で帰国して、2年ぐらいアルバイトをしながら悩んでいたところ、ジュエリーがふと思いつきました。オランダはアートジュエリーが有名であり、プロダクトデザインをやりつつ、ジュエリーを手がけるデザイナーもいたので、自分もやってみるかと。大学院の先生の中には、世界的なジュエリーアーティストもいたので、身近に感じていたことも大きいです。

 

最初は自宅にあった小さな電気窯を使い、焼き物素材のピアスなどのジュエリーを制作していました。若手のファッション系の展示会に出展したことがきっかけで、百貨店の催事や個人店から依頼をいただくようになり、徐々に活動が広がっていきました。素材も天然石や真珠などさまざまなものに変化していきました。 

 

 

■デザインをする上でのこだわりを教えてください。

 

ブランドを始めた当初は、ジュエリーについて何もわからない状態でしたが、それでも既にあるような型や技法をやっても意味がないと思っていました。そこで、お手本から少し外れているものを作ろうと考え、これがブランドのコンセプト「お手本から少しずれた」になりました。

 

ジュエリーデザインに関しては、アメリカやオランダでの学びが大きく影響しています。 アメリカの大学では、主に造形美について学び、立体として美しいものをどのように作り出すかを追究していました。一方で、オランダの大学院では、その学びをさらに発展させ、新しい表現やアイデアをデザインに取り入れる方法を深く探究。これらの経験をジュエリー制作にも応用していて、従来の技法にとらわれるのではなく、新しい技法や表現方法を探ることを大切にしています。そうした探究心が、現在のデザインスタイルに繋がっていると感じています。

 

デザインは、家具や建築を見ているときに、ふとアイデアが浮かぶこともあります。自分から意図的にインプットを増やそうとするというより、自然なひらめきが多いかもしれません。

 

職人さんとの会話から、新しい作品が生まれることもあります。ブランドの代表作である「BANDシリーズ」は、山梨県の甲府市の職人さんに出会ったことで誕生しました。このシリーズでは、石に溝を掘り、そこに金をはめるという独自の石留めを用いています。これまで誰も試したことのないやり方なので、職人さんの高度な技術があって初めて実現できたものです。

 

 

■印象に残っているお仕事や転換点をお聞かせください。

 

2016年に行われた「伊勢志摩G7サミット」で各国首脳が装着したラペルピンは大きく評価されたデザインです。ラペルピンには伊勢志摩の真珠を使用。G7サミットは世界の平和を祈るような場所なので、円卓を囲っているように、G7にちなんだ7つの真珠をバランスよく配置しました。  

 

また、お店を持ったことも転換点でしたね。今の青山(東京)のお店は機能が結構しっかりいて、リアルに来ていただく方も多いです。 

 

■モットーとして大事にされていることはありますか?

 

スペイン語で「なるようになる」という意味を持つ「ケセラセラ」の精神を大事にしています。昔から性格が楽観的なこともありますが、長年の海外生活で得た経験から自然と身についたとも思っています。上手くいくかいかないかはそのとき次第。とりあえずチャレンジしてみることが重要です。それと同時に、今後は目標を立て、戦略的に先のことを考えていける人間になっていかなければと思っています。

 

 

■今後の目標はありますか?

 

約2年前からニューヨークの展示会などに作品を出していて、国内だけでなく海外にも販路を増やしたいと思っています。現在アメリカにある8店舗に作品を卸していますが、これからはヨーロッパやアジアへの比重も増やしていきたいですね。そのためには、展示会も重要ですし、今は営業エージェントをつけることも考えています。

 

デザインについては、新しいものを作り続けたいです。既に存在するようなデザインでは評価を得ることはできないので、自分にしかできないデザインで海外への展開を頑張りたいと思います。

 

 

■これから海外で生活を始めようとされている方へのメッセージをお願いします。

 

自分がマイノリティとなる場所に行くことはいい経験になると思います。そういった環境で生活すると、これまでとはいい方向に感覚が変わり、強くもなれ、よりさまざまな価値観に対して寛容にもなれると思います。また、僕は28歳まで学生をしていたのですが、その経験から言うと、年齢に囚われる必要はありません。「ケセラセラ」の精神で、さまざまなことにチャレンジしてください!   

 

【プロフィール】 
ジュエリーデザイナー 中村穣 
大阪府出身。15歳で単身スイスに渡りスイス公文学園に通う。その後、ニューヨークの美術大学 Pratt Institute にてインダストリアルデザインを学び、その後オランダの大学院 Design Academy Eindhoven にて修士号を取得。30歳でジュエリーデザイナーとしての活動を開始し、2012年に自身のジュエリーブランド「januka(ヤヌカ)」を立ち上げる。「お手本から少しずれた」をコンセプトに、素材や技法への先入観に捉われないジュエリーを制作する。