つややかなソプラノで聴衆を魅了する樹茉央(いつき まお)さん。ドレスをまとって舞台の中央に立ち、ライトを浴びる姿を見ていると、「幼少期から才能を認められ」「名門音楽大学から海外留学」などと、きらびやかな音楽エリートの経歴を想像してしまう。しかし実は音大出身ではなく、大学ではホスピタリティマネジメントを学び、商社で活躍していたこともあるという、音楽家としては異色の経歴の持ち主だ。
高校時代に飛び込んだアメリカで、クワイア(合唱)と出会った。そして社会人になってからの歌との再会が、その後の樹さんの人生を方向づけた。
「すべてのはじまりは兄の入院でした」と、樹さんは意外なことから語り始めた。
(取材・執筆:只木良枝)
「私にはここが合う」
東京で生まれ育った樹茉央さんは公立小学校から、中学校は自宅からバス1本で通える私立の女子校に進学した。
「学校帰りに友達とカラオケしたり、パフェを食べに行ったり。でも門限の5時には家に帰るという典型的な東京の女子中学生でした」
運命が動きだしたのは、中学3年生のある朝だった。
アメリカ・インディアナ州の高校に留学中だった兄が体調を崩し、現地で入院したという知らせが入った。心配した両親はすぐ駆け付けようとしたのだが……。
「なんと父のパスポートの期限が、ちょうど切れていて」
病状によっては日本に連れ帰ることになるかもしれない。そうなると人手がいる。そこで母が頼ったのが樹さんだった。
「あなたパスポート持ってるわよね? と言われて、わけもわからず母について飛行機に乗りました」
インディアナ州に飛んだ樹さんたち母娘を迎えてくれたのが、兄のホストファミリーであるラリーさんだった。兄が通っている高校の教員でもあるラリーさんは、樹さんを「マコトの妹が来たよ」と学校に連れて行ってくれた。まるで体験入学だ。 どちらかといえば厳格な私立女子校の校則を当たり前と思っていた樹さんにとって、その学校生活の様子は衝撃的だった。
「生徒の言動も、精神も自由で、のびのびとしていて。私もここに来たい、私にはここの方が合っている、と思ってしまったんです」
それまでふんわりとしたあこがれでしかなかった「海外の学校生活」が、実際の形になって樹さんの目の前にあった。
幸い兄はほどなく回復。日本に戻った樹さんは、両親に「私も行きたい」「あの高校、あのホストファミリーにお世話になりたい」と訴えた。兄が留学していたとはいえ「高校生の女の子の単身留学」というところに父はやや難色を示したが、母が説得してくれた。
翌夏、卒業してラリーさんの家を離れた兄に入れ替わる形で渡米。樹さんの高校生活が始まった。
ことばの壁を乗り越えるためのツール
「私にはここが合っている」と自ら望んだ生活。とはいえ、現実は厳しかった。
当時はまだ小学校では英語の授業はなく、樹さんの英語学習歴は、中学入学時「アルファベットも読めない、書けない」ところからのスタートだったそうだ。そこからわずかに3年。中学では英会話の授業が行われ、交換留学生との交流の機会もあったりしたものの、アメリカの高校の授業についていける英語レベルには程遠かった。
「学校で今何が起きているのかわからない。事前のアナウンスが理解できず、学校に行ってみたら試験だったということもありました。当然、評価はFですよね」
「今日の宿題は何?」と友達に聞いて、必死で勉強した。
この頃、音楽の授業でクワイアと出会った。子どもの頃から歌は好きで、幼稚園時代には児童合唱団に所属していたこともあった。学業で追いつくのはなかなか厳しそうだが、音楽活動でなら自分をアピールできるかもしれない。かつて同じ高校に在籍した兄はスポーツが得意で人気者だったという。「ならば私は音楽で」と、樹さんは考えた。
先生に勧められて声楽コンクールにも出て好成績をおさめ、高3の冬にはインディアナ州選抜の学生クワイアのメンバーに選ばれた。普段は各地域でレッスンをして、演奏会の前日に全員が州都インディアナポリスに集まって総練習、翌日がステージ本番という大規模なイベントだった。これは樹さんにとっては大きな自信につながった。
「ことばの壁を乗り越えるためのツールとして、音楽があったのかもしれません」

音楽での活躍だけでなく、樹さんは学業でも持ち前の負けん気を発揮。卒業する頃には、優秀な成績で表彰されるほどになっていた。
卒業後は、同じ州にあるボールステイト大学に進学。アメリカで日本語の先生になろうと考えていたので、教育系の学科のある学校を選んだ。ところが、徐々に樹さんに迷いが生じてきた。
日本語教師として仕事をするのは大都会のケースが多い。治安の不安もある。何よりも、アジア系である自分が差別や偏見の対象となりやすいことを、樹さんはそれまでの経験から知っていた。「果たして自分がやっていけるだろうか……」
悩んだ末に進路を変更し、3年次でパデュー大学への編入を決意、ビジネス系を専攻することに。
「編入の時に、TOEFLの点数が大学の基準にわずかに足りなかったんです。でも諦められなくて、アドミッションオフィスに高校と大学の成績を持って行って、『TOEFLは大学の授業についていけるかどうかがを判定するために実施されるはず。ならば私はすでに英語で大学の授業を受けているので問題ないのでは?』と交渉しました」
結局アドミッションオフィスが譲歩し、「サマースクールを受講して、成績がB以上なら特例編入を認める」ということになった。樹さんは鮮やかにAをとって実力を証明した。いかにも、目的に向かって真っすぐに進む樹さんらしいエピソードだ。

声楽との再会
さて、まだ「声楽家・樹茉央」の姿が見えてこない。もう少し時間を進めよう。
大学を卒業後、日本に帰国し、その前年にインターンシップをしていたレジャー施設の運営会社に入社した。実は祖父が起業した会社で、「経営を改革したい」と意気込んでのことだったが、実際には現場と経営陣の間で行き詰ることも多かったそうだ。板挟みになって消耗していく樹さんの姿を見かねた母に「これ以上苦労してほしくない」と泣かれて、商社に転職する。ここでも持前のバイタリティで新規事業の営業企画を手掛けたりして、充実した日々を送っていた。しかし一方で、「仕事は楽しいけれど、この会社に一生ささげるのは自分らしくないな」と、どこかで思っていたという。
その頃、知人が立ち上げた合唱団への誘いを受けた。久しぶりの合唱は楽しかった。会社勤めの傍ら熱心に活動した。
この合唱団を指導していたのが、声楽家の新井直樹さんだった。ある日、樹さんは新井さんから「あなたは『主役の声』だから、本格的に声楽をやりなさい」と勧められる。一旦は断った樹さんだが、ある発表会でソロパートを歌うことになり……。
「いざ、ソロのレッスンが始まったら楽しくて楽しくて、そこからはまっていきました」
新井さんの指導が樹さんに合ったようだった。「英語をしゃべるように歌いなさい」と指導されて、そうか!と思う瞬間もあった。新井さんのもとで、声楽家・樹茉央はめきめきと上達していった。
やがて、新井さんのすすめでソロリサイタルを開くことになった。新井さんが「ここがいい」といったのは300席もある老舗のホールだった。当時の樹さんにとっては規模も格式も釣り合わないと思ったが、師匠の勧めに従った。
「いざチラシを作ろうと思ったら、私、音楽大学出ていないし、演奏家としての経歴がなくて、プロフィール欄に書くことがないんですよ。もう、慌ててコンクールに出て実績をつくりました。帳尻合わせる人生みたいですよね」
振り返って笑う樹さん。本人の戸惑いをよそに、オペラアリアの曲を並べた演奏会は満席、大成功をおさめた。
歌が楽しくなってくるとその比重も増えてくる。平日は会社員生活、週末は歌という二重生活がしばらく続いていたが、気がついたら、年に15回も舞台に立ち、会社生活よりもはるかに歌の比率のほうが高くなっていった。「教えて」と言われることも増え、いつの間にか声楽の教室もはじめていた。
「書類よりも楽譜のほうが大切になってるな」と感じた。体調を崩したこともあり、2015年退職、歌に専念することに。演奏会や声楽の指導にとどまらず、英語が堪能でコミュニケーションができるところを見込まれて大使館のレセプションに招かれて歌うなど、活動の幅はどんどん広がっていく。
持ち前のマネジメント能力を発揮して演奏会のプロデュースも手掛けた。「演奏家さんは音楽に専念したいもの。だからそのための場をつくってあげたいなと思って」という、自らが演奏家であり、かつ、社会人としてプロジェクトマネジメントの力を鍛えてきた樹さんならではの活動だ。
2017年に出産、その後しばらくは活動をセーブしていたが、2025年7月、13年ぶりにリサイタルの舞台に立った。リサイタルには同じ新井門下生の仲間たちが駆け付け、場を盛り上げてくれた。
めぐりめぐって今がある
新井直樹の一番弟子を自認している樹さん。師匠が高齢になってきた今、自分が「新井メソッド」を受け継ぐ存在であることも、強く意識している。そんな樹さんのもとに、本気で声楽を学びたい生徒がレッスンを受けにやってくる。
「みんなを育てたい、だから自分自身ももっともっと成長したい」
と、樹さんは目を輝かせる。
兄の入院というアクシデントからアメリカの高校生活を知り、そこに飛び込み、大変な努力をした。時にはアジア人差別など理不尽な目にもあった。合唱と出会い、大学と社会人時代を経て、また歌に戻ってきた。そして今、声楽家として舞台に立つ。「音楽エリート」とは程遠い道をたどってきた樹さんは、でもそれを回り道だったとは思っていないようだ。「今までの経験すべてが歌につながっている」と言う。
「アメリカ生活を通じて、あきらめないこと、理不尽なことや『悔しい』と感じたことを克服する力が身につき、強くなりました。回り道のように見えることでも、それは無駄ではなかったんです」
あの時の選択は間違っていなかった、と言う樹さんは、「私は自分の意思でアメリカに行ったのだけど……」と、言葉を重ねた。
「海外駐在家族の子どもたちの多くはそうではないですよね。親に連れていかれたと思っているでしょう。正直、日本の方がよかったと思うことも多いはず。でも、今はつらいかもしれないけど、そこで踏ん張ってほしい。それは一生続くわけではないから。今の時間を大切にしてほしいです。それは必ず将来生きてきますから」
さらに小学生の子を持つ母親のひとりとして、樹さんは同じ立場の保護者にこう語り掛ける。
「海外生活は、日本と環境が変わって保護者ご自身が大変でしょう。でも、子どももセンシティブになっていると思うので、どうか受け止めてあげてほしい。つらそうならまず抱きしめて、話を聞いてあげてほしいです。もっと勉強しなさいとか、色々やらせなきゃとか、そういう気持ちは私自身も同じで、本当に良くわかるんですよ。でもまずは『今の暮らしはあたりまえに見えるけど、実はすごいことなんだよ』と言ってあげたいですね」

【プロフィール】 樹茉央(いつき・まお) 1977年東京生まれ。高校時代に単身渡米、留学先の高校でクワイア(合唱)と出会い、インディアナ州の合唱団に選抜される。ボールステイト大学、パデュー大学を経て帰国、会社員時代に合唱と再会し、指導者新井直樹氏の勧めでソリストの道へ。音楽コンクール最高位等上位、優秀賞等受賞。コンサートのマネジメント等も手掛ける。池袋にて「人生が変わる」声楽教室を主宰し、コンクール上位受賞者を輩出している。児童英語指導者資格「Teaching English to Young Learner」(カナダ)、メンタル心理カウンセラー及び行動心理士、日本エステティック協会認定エステティシャンなど、多彩に活躍中。 著書:「『凛女の選択』30代からのリアル 心と体、生きる道」(共著、QP Books、2016年) 樹茉央HP:https://www.soprano-mao.com/ 教室HP:https://www.maovoice.com/







