人の輪に後押しされて、念願叶う
2024年12月16日
イマドキの海外生活

人の輪に後押しされて、念願叶う

イタリア・ミラノの日系会社で働く、佐藤美喜子さん。趣味のバイクを通じて憧れだったイタリア人ライダー、バレンティーノ・ロッシ選手の影響でイタリア語を学び始め、何年も思案した末に新卒から勤めた銀行を退職し、イタリアへ渡る。語学学校を終える頃にコロナウィルスが流行し、アルバイトをしながらイタリア生活を続け、ミラノで日系会社に現地採用される。今年、憧れのバレンティーノ選手と念願の対面を果たした。イタリアへ渡るまで悩んだ期間、コロナ禍を耐えた時期、イタリア人に学んだイタリア流の現在の生活などについて、話を聞いた。

(取材・執筆:Makiko)  

バイクをきっかけに広がった世界  

—イタリア人ライダー、バレンティーノ・ロッシ選手がきっかけでイタリア語を学び始めたと聞きました。 

 

大学生の時に原付バイクに乗り始め、風を切る気持ちよさの虜になり、そこから中型、大型と乗るようになって行きました。バイクのレースも観るようになり、バレンティーノ選手に夢中に。乗り方やバイクの選び方など全ての面で勉強させてもらいました。バレンティーノ選手がインタビューで「何をするにも遅いことはない」と話しているのを見て、「いつかイタリア語を話せるようになって、この人に自分の思いを伝えてみたい」と思うようになりました。  

 

—その頃は銀行に勤めていらっしゃったのですよね。 

 

元々、友達と過ごしたりバイクに乗ったりするプライベートの時間を優先できそうだと思い、新卒で銀行に就職しました。でも、配属先は地元から離れてしまい、残業も多く、新社会人生活は想像と違っていました。 

 

そんな中で、イタリア語を勉強しようと留学セミナーに足を運び、日伊協会の方に相談に乗ってもらいました。実際にイタリアに留学された人に話を聞いたり、日本に住むイタリア人と知り合ったりしていくうちに少しずつ、イタリアが身近になって来ました。 

 

ただ、銀行員なので、日頃から「将来に対するリスク計算」とかしているわけです(笑)。なかなか実際に行くという決断ができないまま、何年か過ごしました。海外なんて自分には無縁だと考えて育ってきましたし、怖がりで負けず嫌いだから失敗はしたくないタイプ。でもその何年かの間に私の気持ちを後押ししてくれる人がどんどん増えて、28歳の時についに退職しイタリアへ語学留学に踏み切りました。  

色んな乗り方を研究し、同じ角度で乗れるようになるまでに。上が美喜子さん、下がバレンティーノ・ロッシ選手
色んな乗り方を研究し、同じ角度で乗れるようになるまでに。上が美喜子さん、下がバレンティーノ・ロッシ選手  

 

体調不良やコロナ流行、そこで出会ったマンマや大切な人たち  

—ついにイタリアに降り立って、いかがでしたか? 

 

1年間の語学留学予定のうち、半年はローマで、次の半年はミラノでと計画しました。最初はローマでホームステイ。おじいさんとおばあさんの家でしたが、何を話しているのかさっぱり聞き取れないし、書いてくれても読めないしと、笑っちゃうくらい何もわかりませんでした。でも、言葉の壁にぶつかることはわかっていましたし、むしろ日本を出て「ぶつかりたい」という思いが自分の中にあったのも確かでした。だから、そういった経験を楽しめましたね。困ることは多々あっても、悩むということはなかったです。英語も特にできるわけではなかったので、最初の伸びは遅かったですが、だんだん喋れるようになるのが嬉しくて仕方がありませんでした。 

 

イタリアに着いて2カ月目にはバレンティーノ選手のレースを観るためにまだつたないイタリア語で電車やバスを乗り継ぐ冒険もしました(メイン写真)。 

 

でも、実は初めのホームステイ先ではパスタばかりの食生活で体調が悪くなってしまいました。そこを出て友人の紹介で他のステイ先を間借りすることにして、出会ったのが、その先3年間一緒に住むことになる「マンマ」です。  

「マンマ」と美喜子さん。イタリア語をうまく使えない美喜子さんが郵便局で対応してもらえず泣いて帰った時には、それを聞いたマンマが激怒して郵便局に乗り込もうとしてくれた
「マンマ」と美喜子さん。イタリア語をうまく使えない美喜子さんが郵便局で対応してもらえず泣いて帰った時には、それを聞いたマンマが激怒して郵便局に乗り込もうとしてくれた  

—1年間の語学留学の予定を伸ばしたところで、コロナが流行。 

 

1年でこんなに上達できるなら、もう1年いられたら日本で仕事でも使えるレベルにできるかもしれないと、2年目の語学学校を探し延長を決めた頃、コロナが到来しました。学校も行けないし、外出も禁止。 

 

初めのうちはマンマとピザ作りをしたり、クイズ番組を見たり。でも、ビザの延長手続きができないまま執行猶予状態で滞在することになったので、「ビザはどうなるのか」「帰国した方がいいのか」など不安が募って行きました。日本人同士で情報交換して過ごしていましたが「帰った方がいいよ」と言われることも多く、ちょっとめげそうになりましたね。 

 

コロナ前にアルバイトをしていた和食レストランのオーナーに相談したら「この国の人たちと一緒に歯を食いしばってこのコロナを耐えてこそ、終わった時に一緒に笑い合える」と言われ、頑張れました。 

 

この頃は、できる仕事を何でも探しました。土曜日の補習授業校の先生や、レストラン。30歳過ぎてまさかこんな仕事をするなんて、というような仕事でも引き受けて、首の皮一枚でつながっているような思いでした。   

コロナ禍に家でマンマとピザ作り(左) コロナにかかり味覚嗅覚を失っていても旨味と愛情を感じたという、マンマ手製のクリスマス料理「Tortellini in brodo di cappone」(右)
コロナ禍に家でマンマとピザ作り(左) 
コロナにかかり味覚嗅覚を失っていても旨味と愛情を感じたという、マンマ手製のクリスマス料理「Tortellini in brodo di cappone」(右)  
何度も相談に乗ってもらい励ましてもらった和食レストランのオーナー夫妻。日系企業で正社員になった時に、自分の給料でお寿司を食べたのが、至福の時だった
何度も相談に乗ってもらい励ましてもらった和食レストランのオーナー夫妻。日系企業で正社員になった時に、自分の給料でお寿司を食べたのが、至福の時だった  

輪の中に入り、輪を広げる  

—その後、日系企業で現地採用され、イタリア6年目となる今年はバレンティーノ・ロッシ選手との対面も果たしたのですね。  

 

学生ビザから就業ビザに切り替えるための窓口が2年ほど開かなかったんです。だから、内定をもらいながらも学生ビザでできるパートタイムでしか働けず、EUブルーカードを申請しながら「急がない、慌てない、なんとかなる」と申請が通るのを待ち続けました。今年は向こう3年の滞在許可がもらえて、イタリアから「ここにいて良いよ」と言われているような気がして本当に嬉しかったです。 

 

そして、こちらで知り合った方の紹介でバイクメーカーのYAMAHAの方と知り合い、そこからバレンティーノ選手が来るというイベントに誘ってもらい、スペインで本人と夢の対面を果たしました。人と人との繋がりから、夢見ていたことが叶い、イタリアに来てから周りの人に感謝してばかりです。 

 

こんなに人や幸運に恵まれているのは、何事も目標達成のために動くというよりは、「輪の中に入る、輪を広げる」ように意識しているからかもしれません。  

 

 

—現在の生活の様子と、10年後のイメージを教えてください。 

 

仕事ではイタリア人に「仕事しようよ!」って喧嘩もしますよ(笑)。私はイタリアでは珍しく残業も結構します。仕事を一生懸命して、帰宅後にワインとサラミで一息つくのが幸せです。バイクは日本に置いてきてしまったので、イタリアでもそろそろ買って乗りたいなあ、と思っています。 

 

日本ではいつも働いて、隙間時間にしたいことを細切れに中途半端にするしかなかったのが、こちらに来てからは自活して、好きな空間を作って、好きなものを食べて、人生をゆっくり過ごしています。これはイタリアに住んで、イタリア人から学んだことです。 

 

色々ありましたが、イタリアに来たことを後悔したことは一度もありません。10年後は家族を持って日々を丁寧に過ごしていられたらいいな。これからも自分に正直に、「やらない後悔よりやって反省」しつつ、生きて行きたいと思います。  

夢が叶った時の写真。次の夢はまた会えた時には緊張せずに彼の腰に手を回すこと!
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