「笑いと人情の詰まった落語は、世界に通用する可能性に満ちている」。そう語るのは、さまざまな国と地域で高座に上がり続けてきた落語家・立川志の春さんです。日本の伝統話芸である落語は、実際のところ世界でどのように受け入れられているのでしょうか?海外にも通用する落語の魅力と、国内外におけるユーモアの違いについて話を聞きました。
(取材・執筆:ミニマル市川茜)
ニューヨークで過ごした幼少期、怖がらずに飛び込む度胸がついた
落語は、江戸時代に生まれた日本の伝統話芸です。江戸から明治にかけて作られた演目である「古典落語」に対し、現代になって新しく作られた演目は「新作落語」と呼ばれています。そんな古典落語と新作落語に加え、落語を英訳した「英語落語」にも取り組んでいるのが、落語家の立川志の春さんです。
志の春さんは、アメリカの名門イェール大学を卒業後、大手商社に就職してから落語家の道へ進んだ異色の経歴の持ち主。そのルーツは、ニューヨークで過ごした幼少期にあるといいます。
「小学校3年生のときに家族の転勤で渡米し、約3年間をニューヨークで過ごしました。まだ英語を全く話せない状況で現地校に通い始めたので、当時は言いたいことも言えずに悔しい思いをしました。その経験から『このままじゃダメだ』と一発奮起。もとは内気で泣き虫な子どもでしたが、英語を習得するなかで自己主張をすることも覚えていきました。
勤めていた商社を退職して落語家になることを決心できたのも、子どもの頃に度胸がついたからこそだと思います。周りには『商社を辞めて落語家になるなんて』と引き止められたのですが、英語を話せないまま教室に足を踏み入れたあのときほど怖いものはないなと。一生をかけてやっていきたいと思った落語の世界に、飛び込まない選択はありえませんでした」
「TENSHIKIは日本の宝だ」という言葉に励まされ、英語落語にも注力
帰国後は千葉県で中高時代を過ごし、アメリカの大学へ進学しました。大学卒業後は、これまで磨いてきた英語力を活かして商社に入社。働き始めて3年目のときに立川志の輔さんの落語に感銘を受けたのをきっかけに、落語の門を叩きました。
「落語界における育成法は、あえて“教えない”のが特徴です。アドバイスやヒントは与えず、褒めるよりも否定する。そうすることで本人に考えさせるんです。また、見習いの頃はとにかく基本に忠実であることが重要で、一人前になるまでは個性を出すことも自己主張も認められません。初めての環境に難しさを感じることもありましたが、『この人に認められたい!』という師匠と出会えて、迷いや後悔は全くありませんでした」
初めて英語落語を披露したのは、前座(※)の頃のこと。おならのことを意味する「てんしき」という言葉を知らなかった和尚さんが知ったかぶりをして、それとなくその意味を探っていく「転失気(TENSHIKI)」という演目を演じました。
「前座時代に師匠志の輔が日本人と外国人のお客さんを前に英語落語を披露する企画があり、『お前は英語が話せるから、前座でやってみろ』と。そこで『転失気(TENSHIKI)』を英語で披露したところ、それまで全くウケなかったのに、その日だけはどっとウケたんです。あまりの奇跡に、僕も師匠もびっくりして(笑)。まだ力量のない自分がこんな安易で危険なものに手を出してはいけないと、一度封印したんです」
英語落語にも注力するようになったのは、二ツ目に昇進してからのこと。きっかけは、シンガポールの『国際ストーリーテリング・フェスティバル』に招待されたことでした。
「そのイベントで英語落語をやったところ、同じ参加者の方から『転失気(TENSHIKI)は日本の宝だ』という嬉しい言葉をもらったんです。大きな手応えを感じ、それからは英語落語にも積極的に取り組むようになりました」
(※)落語家において修行・見習い期間に相当する階級
普遍的なテーマを描いているからこそ、時代と国を越えていく
「転失気(TENSHIKI)」は、クスッと笑える滑稽噺ではあるものの、前座時代やシンガポールのイベントで英語で演じた際の盛り上がりぶりには驚いたという志の春さん。落語を通して生まれる“笑い”や“共感”は、海を越えて国外にも通用するものだと語ります。
「私の大師匠(師匠の師匠)である立川談志は、『落語とは人間の業(ごう)の肯定だ』という言葉を残しています。人間のみっともなさやだらしなさを肯定してくれるものが落語なんだと。転失気でいえば、つい知ったかぶりをしてしまう人間くささを肯定して面白がる感覚が、国際的にも通じているのだと感じます。
江戸時代に生まれた噺で現代の人たちも笑っているわけですから、滑稽話にしても人情噺にしても、古典落語は普遍的なテーマを備えているといえます。落語は、人間が深いところで共感できるものを内包しているんです。日本国内で何百年という時間を越えてきたコンテンツですから、海を超えるのだって難しくないだろうと。英語落語を演じてそう実感しました」
次のページ:英語落語をつくり演じるうえで意識していることとは?
ネタ選びや表現の工夫で、噺の本質を伝える
英語落語を演じるうえで志の春さんが大事にしているのが「ネタ選び」と「リズム感」です。
「これまで、演目選びにはかなりこだわってきました。落語は言葉遊びをもとにした噺も多いのですが、海外の方向けに演じるときには避けています。逆に、夫婦や親子の情を描いた話など、普遍的なテーマに着目して選択することが多いです。
演目が決まったら英訳して演じるわけですが、そこで重要となるのがリズム感です。言葉は英語でも、江戸の空気や落語の雰囲気を感じてもらえるようなリズムで話すことを意識しています」
そのほか、英訳の仕方にも注意が必要とのこと。タブーな表現を避けつつ、江戸時代の文化や風習の伝え方にも細心の注意を払います。
「古典落語が成立した時代と現代とでは、価値観や倫理観が大きく変わっています。ひとつのタブーによって噺が台無しにならないよう、英訳では海外のお客さんを想定して工夫を加えています。古典落語にルッキズムの要素があるときには、表現を変えるようにしていますね。
江戸の文化や風習については、解釈をずらして伝えるだけでグッとわかりやすくなるんです。例えば長屋であれば、どんな建物であるかを説明するよりも、庶民が共同生活を送っている『江戸版シェアハウス』だと表現した方がわかりやすいですよね。長屋がどんな家なのかは物語の本筋とは関係ありません。伝えたいことの本質を考えた表現に起こしていくことを意識しています」
日本文化の枠を越え、世界に通用する“エンタメ”として落語を広めたい
英語落語については、海外のお客さんからは好意的な反応やコメントが数多く寄せられているそう。一方で、海外では王道の話芸であるスタンダップコメディとの違いに難しさを感じることもあるといいます。
「落語は、ナレーターとしての自分が消える話芸なんです。まくら(落語の本題に入る前の小噺のようなもの)が終われば、あとは情景や会話を見せていくことで、より力強い脳内イメージをつくっていくわけです。これは落語の強みである一方、王道のスタンダップコメディとの大きな違いでもあります。また、政治批判など必ずしも大人向けではなく、年齢問わずみんなが楽しめるのも落語の魅力です。
落語の話芸スタイルはまだあまり親しまれていないぶん、浸透するまでにはもう少し時間がかかりそうですが、日本のコメディとしての落語をさらに海外に広めて行きたいと思っています。まだ日本のカルチャーという枠に収まってしまっていますが、落語は世界のエンタメとして通用する可能性があると信じています。カルチャーの壁を越えたエンタメとして打ち出していきたいんです」
現在、日本で活躍している落語家は1000人ほど。そのうち英語落語を演じているのはほんの数名しかいません。しかし、そんな状況だけにやりがいもあるようです。
「そもそも英語を話せる人の多くは、僕のように突然『落語家になろう』とは思わないでしょうね(笑)。ただ、商社にいて英語を話せる人はごまんといても、落語家で英語を話せる人は滅多にいません。だからこそ自分の道を切り拓いていける面白さもあると感じています」
笑いはある種の自己表現。自由に落語を楽しんでもらえたら
これまで国内外で高座に上がってきた志の春さん。お客さんが笑う際のリアクションの違いについても、とある発見があったと語ります。
「海外で落語をやっていると、お客さんのリアクションの違いを感じることがあります。例えば、日本の寄席で自分ひとりだけ笑ってしまったら『笑う場所を間違えたかな?』と引け目を感じてしまいませんか?一方で、海外のお客さんは自分が感じたままに堂々と笑っているんですよね。『周りは気づいてなくても、自分はこのジョークがわかったぞ!』と言わんばかりの笑い声で、どんどん笑いが加速していきます。
笑いは、ある種の自己表現でもあるんですよね。『私はこれを面白いと思った』ということに、もっと自信を持っていいと思っています。落語の楽しみ方は人それぞれ。空気を読む必要は全くないので、自由な面白がり方をしてもらえたら嬉しいです」
最後に、英語落語に興味を持った親御さんとお子さんへのメッセージをお聞きしました。
「ぜひ自分なりに落語を覚えて真似して、家族や友人、周りの人を笑わせてみてください。会話スタイルの落語は話すコミュニケーションの練習にもなりますし、誰かを笑わせることで成功体験にもつながるはずです。
また、落語は台本を頭に入れてお客さんの反応を見ながらやっていくものです。その点、スピーチやプレゼンをする際にも役立つと思いますね。台本なしで相手の目を見ながら伝えるだけで、スピーチの印象は大きく変わってくるものです。落語を聴いたり実際に演じてみたりすることで、相手に響く伝え方のヒントが得られるかもしれません」
【取材協力】 |
立川志の春 |
1976年大阪府豊中市出身。幼少期の3年間をニューヨークで過ごし、帰国後は千葉県柏市で学生生活を送る。イェール大学卒業後、三井物産に3年半勤務し、落語家の道へ。2002年に立川志の輔一門の3番弟子として入門。2011年に二つ目昇進、2020年に真打昇進。古典落語や新作落語に加えて英語落語にも挑戦し、国内外で活躍の場を広げている。 |
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