東京都に住む宮崎珠実さんは、小学校5年生の夏から中学校3年生の夏までの4年間をアメリカ・カリフォルニア州で過ごした。英語の環境に憧れ、現地校での生活を選んだ宮崎さんだったが、ネイティブスピーカーの世界に順応するのは、想像以上に難しかった。そんな彼女は、帰国から5年以上が過ぎた今、所属する大学で留学生のサポートをする活動を通して、英語でコミュニケーションをする楽しさを実感している。思春期に経験したアメリカ生活で、宮崎さんは何を学び、何を得たのか……。その答えが、少しずつクリアになり始めている。
(取材・執筆:Minimal 丸茂健一)
カリフォルニア州アーバインで現地校に通う
「今、大学で留学生をサポートするボランティアスタッフをしているんです。英語力をキープするために始めたのですが、アジアから来た留学生の子たちがみんな明るくて、話しやすいので、アメリカにいたときより、むしろ英語力が上達している気がします(笑)」
そう語るのは、東京都内の大学に通う宮崎珠実さん。農学部に所属し、環境に関する勉強をしている。宮崎さんが海外生活を経験したのは、小学校5年生の夏から中学校3年生の夏までの4年間。アメリカ・カリフォルニア州アーバインの現地校に通っていた。アーバインといえば、カリフォルニア大学アーバイン校がある教育熱心な街。中国系の移民が多く、日系2世も数多く住んでいた。編入した小学校はアジア系の児童が半数以上を占めていたという。
食品メーカーに勤務していた父親に、「アメリカに行くことになった」と告げられたのは、小学校4年生のとき。それまで海外に行った経験はなく、英語もほとんど話せなかったが、新しい世界に興味がわいた。
「英語が話せるようになれば、かっこいいなと思って、自分から現地校に通いたいと言いました。ぜんぜん怖いとかは思わなかったですね」
カリフォルニアには、日本人学校もある。しかし、その選択をすると住む場所や学びの選択肢が限られた。現地校+日本語補習校の組み合わせなら、住む場所の選択肢も大きく広がる。家族で話し合い、宮崎さんはアーバインの現地小学校に通い始めた。
「I want to go home.」と書いたメモを持って登校
2010年代のカリフォルニアらしく、中国、韓国などアジア系だけでなく、ヒスパニック系など移民が多いエリアだったこともあり、通い始めた小学校には、English Learner(英語学習者)のクラスがあった。宮崎さんは、まず1年間ここに通うことになった。
「現地校に入る前に英語のプレースメントテストがあり、読む・聞く・書く・話すの4技能を測定しました。スピーキングは1対1で質問を受けたのですが、どのテストもぜんぜんわからなかったのをよく覚えています。英語って難しいんだ……と入学してから気づきましたね」
編入したのは、English Learner向けのGrade6(6年生)だった。クラスの女子のほとんどは中国系・台湾系の子どもたち。男子もほとんどが中国系で、残りはイスラエル人、ブラジル人、日本人がわずかにいた程度だった。
English Learnerのクラスとはいえ、すべて英語による授業がいきなり始まるとほとんど何もわからない。「これからどうなるのか?」と不安になり、「学校に行きたくない」とメソメソ泣きながら登校したこともあったという。
「自分で言うのもなんですが、日本の小学校では勉強は得意だったんです。それが、アメリカに来たらほとんど何もわからないダメな子状態。はじめの2週間くらいは、さすがに落ち込みましたね。どうしても家に帰りたくなったときに備えて、『I want to go home.』と書いたメモを持って登校していました」
当然ながら最初は友達もできなかった。それでも次第にまわりが見えてくるようになる。はじめに話しかけてくれたのは、台湾出身の女の子だった。彼女は、中国出身の女子グループが中国語で話していると「タマミがいるときは英語で話そう!」と言ってくれた。
「小学校で一緒だった台湾出身の友人は、いまUCI(カリフォルニア大学アーバイン校)に通っています。先日、一緒に台湾旅行に行ったくらい今も仲がいいです。何もわからない状況で、私と仲良くしたいと思ってくれる子がいたことに本当に救われました。その子といるようになって、やっと学校に行く意味を見つけられました」

自作の日本語・英語単語対応表をつくって猛勉強
しかし、英語の環境に慣れるまでには、もう少し時間がかかった。しかも、出国したとき小学校5年生だったが、編入したのはGrade6のクラス。算数などは日本より少し進んでいる印象だった。そもそも習ったことがない内容を英語で学ぶという未知の領域。「わからない」という状態を経験したことがない“優等生”だった宮崎さんは、精神的に追い詰められたという。
このまま何もわからないままだと本当にマズイ——。そこからスイッチが入った宮崎さんは、コピー用紙を使って自作の日本語・英語単語対応表などをつくり、何もわからない状態を自ら克服していく。そして、9月に入学してから1カ月半後の10月中旬、中国出身のお友達のバースデーパーティに呼ばれた際には、English Learnerクラスの子たちの会話ならなんとかわかる程度にまで英語が上達していた。そして、入学から半年後には、授業も次第に理解できるようになったという。
「自分ではものすごく努力したつもりでしたが、今振り返ると半年で順応できたのは、小学生ならではの環境適応能力があったのかもしれません」 9月に現地小学校に入学したのと同時に、日本語補習校にも通い始めた。ロサンゼルスの補習校の代名詞ともいえる「あさひ学園」のオレンジ校で、毎週土曜日に国語や社会の授業を受けた。先生はわりとドライだったが、日本語でしっかり勉強の成果を評価してもらえたのはうれしかった。
ミドルスクールはリアルネイティブの世界
やっと現地生活に慣れてきた頃、宮崎さんに次の試練が訪れる。現地のミドルスクール(中学校)への進学だ。次に所属するのは、English Learnerクラスではない。ネイティブスピーカーのアメリカ人の生徒たちの世界。そこには、ちょっとの背伸びでは、超えられないハードルがあった。
アーバインの多くのミドルスクールに通う生徒たちは、およそアジア系5割、白人系4割、ヒスパニック系1割という比率。富裕層が住む教育に力を入れるエリアだけに、みんな勉強熱心だった。相変わらずアジア系の生徒が多い環境だったが、小学校とは違った。ミドルスクールに通うアジア系の生徒たちは、アメリカ生まれで、中身は完全なアメリカン。そんなコミュニティの中で、自分だけが留学生のようなアウェー感を感じたという。
「やはり、テストを受けて、English Learnerクラスを修了したとはいえ、現地の子たちと日常会話をするには、ほど遠い英語力なんです。やさしく接してくれる子は限られて、その他大勢とはほとんど話せない状態で……。私は標準クラスにいながら、ミドルスクールでもEnglish Learnerクラスの子と仲よくしていましたね」
中学生時代を思い返せば誰でも想像がつくが、周囲を見渡せば、本来、仲良くできそうな子は雰囲気でわかる。しかし、言葉の壁があって、話しかけられない。グイグイと距離を詰められるような雰囲気でもなく、歯がゆい思いをしたという。
ロボットクラブで信頼できる先生と出会う
授業の内容は聞き取れるし、エッセイも問題なく提出できた。しかし、ネイティブの子たちとの会話となると思っていることを伝えられない。さらに、アメリカの授業ではプレゼンテーションやディスカッションの機会も多い。たどたどしい英語で話す自分が嫌で、必要以上に緊張したという。思春期真っ只中の中学生にとって、かなり辛い状況……。そんなときに、救いの手を差し伸べてくれたのが、ロボットクラブの先生だった。
「当時、理科が好きで、得意科目でもあったので、関連するゆるめのクラブ活動に参加しました。ひとつがロボットクラブ、もうひとつがグリーンチームコンポスト。後者は、ランチの残りを土に戻して、コンポスト(堆肥)にするような活動をするクラブです。いま農学部で学んでいるのは、ここがきっかけだったのかもしれません。このときのクラブ活動で、やっと先生に名前を覚えてもらうことができました」
特に親身に関わってくれたのがロボットクラブの担当教員だった。宮崎さんをTA(ティーチングアシスタント)に指名してくれて、活動の中心に入れてくれた。担任でもあったその先生のおかげで、次第にミドルスクールでの生活にも自信がついてきた。「自分のことをわかってくれている」と思える存在ができたのは大きかった。

「頑張りすぎなくてもよかったんじゃないかな」
そこから月日は流れ、Grade9になった宮崎さんは、1年間だけ現地のハイスクール生活も経験する。ミドルスクール時代のクラブ活動での成功体験もあり、ハイスクール時代は、授業でも積極的に発言するように心がけていた。内心では「嫌だな」と思いながらも手を挙げて、発言を続けた。それでも「意図したことが伝わらない」と無力感を感じることも多かった。そんななか、日本に帰国するときが訪れる——。
「“ちゃんとやりたい”という自分の性格もあったと思うのですが、今思うとアメリカであそこまで頑張りすぎなくてもよかったんじゃないかなと思います。その証拠に、いま日本で留学生とリラックスして話していると英語がスムーズに出てきますから。もし、海外で同じ境遇にいる後輩がいたら、『頑張りすぎなくていいよ』とアドバイスしたいですね」
自分に自信がなければ、どうしても友達をつくろうという勇気も出なくなる。思春期を抜けて、いろいろな人と話すことへの抵抗もなくなった今、宮崎さんにはやっと冷静に当時を振り返る余裕ができたのだ。
大学で留学生をサポートする活動に参加
1年間だけ現地のハイスクールに通った宮崎さんだったが、日本に戻ると中学校3年の夏だった。半年だけ地元の中学校に通い、普通受験をして、卒業後は公立の工業高校に進学した。アメリカでのロボットクラブを思い出し、高校では科学部に所属して、クラブ活動を楽しんだ。
しかし、アメリカで学んでいたことは周囲にあまり話さなかった。英語での会話に自信が持てないまま帰国した宮崎さんは、人とのコミュニケーションにどこか苦手意識を持つようになっていた。
その後、受験を経て、現在の大学に進学。英語力を維持したいという目的で始めた留学生をサポートするボランティア活動が、宮崎さんにコミュニケーションの楽しさを思い出させてくれたという。
「サポートしているのは、マレーシアやインドネシアから来た留学生が中心です。みんな英語が上手でおしゃべりが大好きで、何よりみんな似たようなレベルの英語なので、心地いいんです。英語を話すのって楽しいなって、ここで初めて思えた気がします。私、けっこう話せるかも、英語得意かもと自覚できたというか……。また、アメリカでイスラム教など、さまざまな宗教に触れていた経験も生きています。彼女たちの礼拝の時間やハラール料理の文化を自然と意識できている自分がいます」
新しいことにチャレンジするハードルが下がった
留学生たちを見ているとカリフォルニアで、違う文化の中でひとりぼっちだった自分を思い出す。その気持ちがわかるだけに、サポート活動にも力が入る。そして、留学生たちとの国際交流は、自分がアメリカで得たものを思い出させてくれるという。
「いろいろあったアメリカ生活でしたが、やはり現地で常に新しいことに挑戦した経験が今の自分の行動力につながっている気がします。授業での発言やロボットクラブでの活動を通じて、新しいことにチャレンジするハードルが下がった気がします。今、海外で現地校に通っている人は、うまくいかなかったり、落ち込んだりする瞬間もあると思います。そんなときは、自分は唯一無二の経験をしているということを思ってください。もちろん、本当に逃げたいと思ったら、それも選択肢のひとつです。でも頑張ってやり遂げたら、いつかそれが糧になる日が必ず来ると私は思います」
大学1年次の夏休みには、ブルネイでの短期留学も経験。アメリカ以外の文化圏の面白さも知った。大学3年次には、インドネシアでさらに長期留学をする計画もあるという。自分の気持ちを表現できなくて、くやしい思いをしたアメリカ生活を経て、宮崎さんは今、確実に自分の成長を実感している。今後、さらに活躍のフィールドを広げていくなかで、4年間のアメリカ生活が自分にくれたものを本当に理解するのかもしれない。