2024年4月15日
イマドキの海外生活

数年予定が10年に。延びる駐在生活の中で送る学校生活と、選んでいく進路

2014年からアメリカで駐在生活を送る高橋ファミリー。これまで、2006年から2011年は香港に、2年半を日本で過ごしたのち2014年から2022年はオハイオ州に、2022年からはミシガン州に駐在している。当初は数年の予定だったという駐在生活が延長を重ねる中で成長してきた長女の侑菜さん(22歳)と次男の大河さん(12歳)に進路の選び方や将来について等、話を聞いた。

(取材・執筆Makiko)

目標として持ち続けていたのは日本での受験

—侑菜さんは横浜生まれで、5歳から10歳までは香港で育ったのですね。  

 

侑菜:香港には日本人学校もありましたが、イギリス系のインターナショナルスクールに入りました。英語が全くわからずに、初めの頃は「イエス」と「ノー」だけ繰り返していたのを覚えています。広々とした学校で、慣れた後は楽しかった記憶ばかりです。日本人は数人で、多国籍な環境でした。  

 

—小学校4年で日本に帰国してから再び中学校1年でアメリカに渡られることになりますが、その頃のことを教えてください。  

 

侑菜:香港から帰国し、東京の公立小学校に入りました。自分を下の名前で呼ぶことを先生に注意されるなど、些細なカルチャーショックはありましたが、特に苦労をしたような覚えはありません。帰国枠での中学受験に向けて塾に通って勉強し、東京学芸大附属国際中等学校に入学しました。入学と同時期に父のアメリカ駐在が決まったので、数週間だけ通わせてもらい、籍を残した状態で渡米しました。「3年くらいで戻ってきまーす」なんて、クラスメイトに軽く挨拶して(笑)。  

 

—香港でインターナショナルスクールに通われていたのなら、中学校1年で渡米したときに英語で困ることはなかったのでは?  

 

侑菜:自分でも英語は大丈夫だと思っていましたが、アメリカの中学校に入り周囲が話すのを聞いて、まず「話すのが速い」と感じました。日本にいる2年半の間に自覚している以上に英語を忘れていたのかもしれません。また、香港ではイギリス系の学校だったので、自分自身もイギリス系のアクセントがあり周囲と話し方が違っていました。聞き取れないことも、意外とありました。勉強で苦労することはありませんでしたが、周りが話しているテレビや音楽の話題についていけなかったです。それから、アメリカ人特有のサーカズム(皮肉)を交えた話し方が理解できなかったです。でも、それが辛かったと言うよりは、そういった違いが面白いと感じていました。 

 

 —数年で帰国する予定だったということですが、どのように気持ちや勉強の仕方を整理していましたか?  

 

侑菜:中学校に籍を残している間は元の学校に戻るつもりでしたし、駐在が延長になって籍を抜いた後も、高校受験をするかもしれないと思って日本の勉強を進めていました。またアメリカの高校に進学した後は、日本での大学受験を目指してTOEFLとSAT、そして小論文の勉強をしていました。 アメリカの大学に進学するつもりの子は進学に有利な科目を選択したり、飛び級をしたりしていましたが、私はとにかく日本で進学するための勉強をしていました。 海外駐在は帰る時期がわからないので、いつ、どんな勉強をすればいいのかが明確にしにくいのが難しいところです。  

 

—そのようにずっと日本での受験を念頭においてアメリカで生活していくというのは、日米の二重生活をしているような感じでしょうか?  

 

侑菜:中学校ではクロスカントリー、高校ではバンドとフィールドホッケーの活動をしていました。そこでは現地の友達と同じように過ごしていましたが、土曜日は補習校で日本の勉強をして、残りの時間は家で日本の受験用の勉強をするような生活でした。アメリカに移住してきたアジア人の友人もいますが、彼らは「駐在」ではないので、見ている場所が違います。帰国を前提に現地校生活を送るのは、「駐在」独特のものだと思います。だからこそ、同じような環境で頑張る日本人の友達の存在が本当に大切でした。  

 

—最終的にミシガン大学へ進学されましたが、その背景を教えてください。  

 

侑菜:大学受験に必要となるTOEFLとSATというのは点数が目に見えるし、やるべきことが明確なので、それまで目標の焦点を当てにくかった私にとって、勉強がやりやすかったんです。それで、その点数が取れたところで、日本の受験より先にアメリカの大学へも出願できるということで、送ってみたら合格したんです。合格しましたが、ずっと日本の大学を目指していたので、選ぶにあたってかなり悩みました。結局ミシガン大学に決めたのは、日本の大学より勉強をしっかりできそうだったのと、アメリカの多様な環境にまだもう少し身を置いてみたいと思ったからです。ビジネスを学ぶのに、アメリカの方が産学連携が盛んだからというのもありました。  

フィールドホッケーに励んだ高校時代の侑菜さん。大学では日本クラブとビジネスクラブに所属しながら、友達と短期間だけバレーボールのチームを組んでトーナメントに出たり、オーケストラに単発で参加したりと、勉強の合間に課外活動を行なった   

この人生をいただいたことを無駄にしてはいけない  

—2カ国の勉強を進める、大変な中高生時代を送られたと思います。結果、アメリカで進学されたことで、日本の勉強は必要がなかったと感じることは?  

 

侑菜:いえ、日本の大学を目指していた時間はとても大切な時間だったと思っています。就職を考える時にも、大学受験まで見据えて勉強していたからこそ、日本の会社も視野に入れて就職活動をすることができました。卒業後はシカゴにあるビジネスコンサルティングの会社で働くことが決まっていますが、その後も日本に戻りたいと思ったら戻れるだろうと思えるのは、日本語で勉強を最後まで続けていたからです。今は、アメリカ在住の日本人高校生の家庭教師をしていますが、その子たちの悩みに寄り添えたり、悩みに共感できたりするのも、あの時間があったからこそだと思っています。  

 

—成長する上で支えになったことや、悩んだことは?  

 

侑菜:友達と家族、特に母に支えられました。香港にいた小学生の時は英語を上達させる手段として一緒に英検対策に取り組んでくれていました。その後も漢字や本を読むことを促してもらっていたことに感謝しています。いつも伴走してくれていたので、高校生になって自分で勉強を進めないといけなくなってからも、その頃のペースのまま走り続けることができました。 大学進学と就職のとき、日米のどちらにするかというのは本当に悩みました。日本にいる祖父母にいつも「卒業したら帰国するからね」と話していたので。でも、基本的には、こういった人生をいただいたことを無駄にしてはいけないという気持ちを持って、進学や就職を決めてきました。 反抗期って、なかったんです。弟たちを見ていても、ないと思います。だから、そういう悩みはなかったですね。  

 

—10年後のイメージを教えてください。 

 

侑菜:日本にいるかアメリカにいるかわかりませんが、どちらの国にも携われるような仕事をしていたいです。また、中高時代を送ったオハイオはアメリカでは地方なので日本人学校や塾がありませんでした。そういった地方に住む人でも、世界の都市部のリソースに手が届く環境作りに何かしら手助けができたら良いと思っています。  

同じ高校からミシガン大に進んだのは侑菜さん一人。「人生の節目には新しい環境に行くものだと思っているので、最初は難しくても、まあなんとかなるかなと思って」と、侑菜さん 

 

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