2024年5月13日
家族/クロスカルチャー

家族と向き合う時間をくれた2度の海外駐在生活【後編】

日系メーカーに勤務する父・史郎(しろう)は、2007年にアメリカ・シカゴ赴任の辞令を受ける。そこから母・美江(よしえ)と長男・慶(けい)、次男・瞬(しゅん)を伴ってのアメリカ生活がスタート。その後、約5年間の日本滞在をはさんで、家族は再び南米チリでの海外赴任生活を経験する。家族一丸となって、さまざまな土地で多様な文化に触れた約12年間の軌跡をたどる。(仮名) 

(取材・文 丸茂健一)

 

日本の小学校はまさに異国だった

子どもたちがすっかりアメリカ生活にも慣れたタイミングで、今度は日本帰国の辞令が出た。そこで、まず2012年8月に母子が帰国。翌年、史郎も帰国し、家族4人での日本生活がスタートした。

2012年に帰国、慶は公立小学校の5年生、瞬は3年生の2学期に編入した。幼い兄弟にとって、日本の小学校はまさに異国だった。  

 

「日本語補習校に通っていたので、言葉で困ることはありませんでしたが、やはり周囲に馴染むのに苦労しましたね。小5の子どもにとっては、『英語をしゃべる変なやつが来た』という感じで、こちらも距離感がわからない。補習校には居場所があったのに、日本の学校にはないという不思議な経験をしました」(慶)  

 

「僕はとにかく知らないことが多かった……。下駄箱って何? 上履きて何? という感じで。『イリノイ州から来ました!』といっても『どこ?』という感じで、相手の感覚がぜんぜんわからない。漢字テストができないのはいいとして、国語の授業で教えられるローマ字のテストもできない。日本語も英語も中途半端で、どっち付かずの感覚がありましたね」(瞬)  

 

慶が驚いたのは、学校での「遊び方」が細かく決まっていること。クラスには暗黙のルールがあり、ちょっとした失敗が見逃されない。自由の国アメリカでは、多少の逸脱は「個性」として放置されるのが当たり前。時に日本人の美徳とされる「規律正しさ」が重くのしかかることに……。

お泊まり会で友人とゲームを楽しむイリノイ州時代の慶

「小学校での1年半は、少し苦労しましたが、その後、私立の中学校に進学して、世界は変わりました。そこは、帰国子女も多く通うグローバル教育に力を入れている学校で、柔軟な考えの子が多かったんです。受験では、アメリカで身につけた英語力もアドバンテージになりました」(慶)

 

漢字テストに戸惑っていた瞬だったが、その後は慶以上に「日本人化(本人談)」を加速していく。野球部に入り、気の合う友達をつくり、みんなと同じ遊びをする。そこに疑問は感じなかった。 

 

「今思うと日本社会に過度に順応していた気がします。小学校3年生だったこともあって、特に反発せずに、まわりの文化を素直に受け入れた感じでしたね」(瞬)

 

私立中学校に進学した慶に対し、瞬は地元の公立中学校に進学。そこでも野球部に入り、地元の仲間との親交を深めていった。

 

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