アジア、アフリカでの計15年で、 子どもたちは世界を学んだ【後編】
2025年5月12日
家族/クロスカルチャー

アジア、アフリカでの計15年で、 子どもたちは世界を学んだ【後編】

国際開発の仕事に従事するかよ&けんじ夫妻は、長男のひかる、次男のつばさ、長女のかおると約15年に及ぶ海外生活を経験した。ケニア、ミャンマー、南米ガイアナ、ガーナを経て、家族は再びミャンマーで生活することになる。長男が小学校に通う年齢になり、現地での生活にも変化が出てくる。子どもたちが通ったインターナショナルスクールの様子、さらに、日本に帰国してからの生活などについて詳しく聞いた。

(取材・執筆:丸茂健一)

子ども3人で「ミャンマーに残る」と決めた日  

かよの2年間に及ぶガーナ勤務が終わると、けんじが待つミャンマーに母子で戻り、かよはJICAに勤務するようになった。ときは、東日本大震災が起こった2011年。ここから2013年まで再び家族5人で、ヤンゴンで生活することになる。そのとき、ひかるは小学校4年生、つばさは小学校3年生、かおるは幼稚園の年長だった。ここでひかるとつばさは、現地のインターナショナルスクール、かおるは現地の幼稚園に通った。  

 

「子どもたちが通ったインターナショナルスクール・オブ・ヤンゴンは、主に大使館などの子どもたちが通う学校で、ビジネスで成功したアジア系の家庭の子どもなども通っていました。長男と次男は楽しかったようで、英語の環境にもストレスなく順応していました。このときの学校がとにかく楽しかったようで、ミャンマーから日本への帰国が決まったとき、子どもたちが何やら3人で会議をして、真剣な顔で『ボクたちここに残ることにした!』と言い出したときは、思わず笑ってしまいました」

アジア、アフリカでの計15年で、 子どもたちは世界を学んだ【後編】

 

インターナショナルスクール・オブ・ヤンゴンは、1学年30名程度の児童・生徒が12学年分通っているミャンマーでも最大規模のインターナショナルスクールだった。通っていたのは、アメリカ人、イギリス人、ドイツ人、オーストラリア人ら欧米系の子どもたちのほか、中国人、インド人、ミャンマー人もいた。子どもたちは、まさに異文化の中で学んだことになる。

 

学校では、スポーツデイ、インターナショナルデイなど、定番のイベントも開催されていた。インターナショナルデイには、保護者が学校に集まり、それぞれの母国の料理で子どもたちをもてなしていた。また、各国でベストセラーになっている「THIRD CULTURE KIDS: Growing Up Among Worlds」という書籍を読んで、母国でない場所で、母語ではない言葉で教育を受ける子どもたちのアイデンティティについて、親子で学びながら考える機会などもあったという。

 

「サードカルチャーキッズ」とは、両親の生まれた国の文化を第一文化、現在生活している国の文化を第二文化とし、この二つの文化のはざまで特定の文化に属することなく独自の生活文化を創造していく子どもたちのことを指す。かよは、子どもたちの将来を案じていたが、本人たちは、周囲の仲間と無邪気に遊んでいたという。

 

「同じマンションには、仲よくしてくれたイスラエル人やドイツ人の家族も住んでいて、よくお泊まり会もしていました。世界を認識していくいい時期に貴重な経験ができたと思っています」

アジア、アフリカでの計15年で、 子どもたちは世界を学んだ【後編】

 

中学校以降は日本で学ばせようと夫婦で決めていた

ミャンマーでJICAの仕事を続けていたかよ&けんじ夫妻だったが、ひかるが小学校6年生になるタイミングで、日本へ帰国することにする。「考える力」は母国語で養うべきだと考え、ひかるの中学校受験に合わせて、日本の学校に通わせることは夫婦で決めていたという。

 

「帰国後は、東京都内に住まいを構えて、長男は帰国子女が多く通う私立の中高一貫校に通い始めました。いくつか学校を見学し、そこが気に入ったようです。やはり海外のカルチャーが合うようで、その後、次男も同じ学校に通うようになります。学校がインターナショナルな雰囲気だったこともあり、日本社会に順応する上で、ストレスを感じることは長男・次男ともなかったようです。ただ、公立の小学校に通い始めた長女は、最初外履きのまま校舎に入って注意されたりしていましたが、6年生になる頃には、生徒会長を任されるまで順応していました」 

 

アフリカや東南アジアという欧米圏とは異なる海外の環境で、学校生活を送ったつばさとかおるが、メールインタビューに答えてくれたので、ここで紹介しよう。

 

【次男つばさ 日本の大学3年生】
多くの人が持つ「母国」という感覚が薄い

海外生活を経験したことで、何よりも主体性が身につきました。暴力や差別など困難なことが起きたとき、環境を変えることは難しくても、アクションを起こすことで自分の状況は変えることができることを実感しながら育ってきたと自覚しています。

 

日本で暮らし始めて、多くの日本人は、外国人を「日本」と「海外」の2分割で見ているのを感じます。外国人といってもアメリカ人とミャンマー人とガーナ人では、まったく文化も価値観も異なります。異文化を細かい目で見られる視点は、海外で身についたものだと思います。

 

また、中学・高校時代から、まわりに帰国生の友達がいましたが、やはり欧米圏で学んだ人とアジアやアフリカで学んだ人でも感覚は違う気がしています。僕は多くの人が持つ「母国」という感覚が薄く、一つの国が特別ということがありません。それが「日本」でもなければ、他の帰国生が持つ「母国」でもないので、どこか世界をフラットに見ていると思います。国ごとにも、地域ごとにも、コミュニティごとにも、価値観は違うものだとして、今も生きています。

 

さまざまな国を現地で見て、得たものは「人生の目的」です。自分自身の人生も、共に生きている人々も、社会も、人々がよりよい状態を目指すことに挑戦できる社会をつくりたいと思っています。 

アジア、アフリカでの計15年で、 子どもたちは世界を学んだ【後編】

 

【長女かおる アメリカの大学1年生】
感情を共有できる家族が帰国後の支えだった

海外生活を経験して、日本人として大切にしている文化や国民性のアイデンティティを大事にしながらも現地に適応するために妥協と協調を意識する力がつきました。例えば、東アジアの国として一括りにされてしまうことが多い日本ですが、日常のところどころに日本人らしい「礼儀」だったり「おもてなし」、「侘び寂びの心」などを表現する機会があります。一方で現地の人からすれば時間を守ることや恩を返すこと、敬語を使うなどはそれほど重要でない場合もあります。そのため自らが大事にしたいと思う日本らしいの価値観を大切にしながらも現地のマインドセットを理解し、適応するバランス力が試されることもありました。このバランス力を維持するために日本と現地の歴史、現在の関係、築いていきたい未来の関係性などを意識するようになりました。

 

帰国後もこうした力は、学校生活や地域、家族内で活きていると思います。特に学校生活では、逆カルチャーショックを受けることもあって、自分の母国であるにもかかわらず、驚くことも多々ありました。例えば、上履きを履いたり、「いただきます」を言ってからみんなで給食を食べたり、制服や体操服を準備したりと集団の統一感を大事にする日本らしさに当初は驚いていました。そのため、逆に海外で培った独立心(independence)を大事にしながらも、集団の調和を意識するようになりました。そにため、海外で培った妥協したり協調したりする力は日本でも活きていると思います。

 

海外から帰国したとき、心の支えになったのは家族でした。我が家の場合は、特に海外を転々としていたため、帰国子女の中でもあまり共感できる同級生などがいませんでした。その中でも同じ環境で一緒に過ごし、異なることを学び、感情を共有できる家族が身近にいることは、多文化共生を学ぶ地球市民としてだけでなく、個人の人間形成にも大きな影響を与えたと思っています。 

 

“地球”という視点でモノを見られるようになった  

ひかるは大学院に進学し、現在は量子コンピュータを学んでいる。将来は、さらに海外の大学院で学ぶ道も検討中だ。つばさは、大学4年生で、現在は空き家再生のNPOを立ち上げて活動中だ。かおるは、アメリカ・サンフランシスコの大学に留学中だという。かおるは、帰国後もニュージーランドや台湾に長期留学するなど、海外の異文化に触れる経験を続け、最終的にアメリカの大学に進学するという道を選んだ。

 

さまざまな道を選び、活躍する子どもたちを見ながら、改めて母かよにアフリカや東南アジアなど日本とは異なる環境で子育てをして、よかったと思うことを聞いてみた。

 

「やはり、子どもたちが“地球”という視点でモノを見られるようになったことですね。次男のつばさも言っているように、彼らは世界をフラットに見ている。だから、長女は大学進学でも国境を越える選択が当たり前にできました。また、開発途上国で暮らしたことで、サバイバル能力が付いていると思います。子どもたちにはゲーム機を買ってあげたことがなくて、ミャンマーでもガーナでも外で泥んこになって遊んでいました。そこで、現地の人々と触れ合いながら、人にはそれぞれの価値観、それぞれの宗教観があることを身をもって学んだと思います」

海外から帰国後、コロナ禍にけんじが亡くなるという悲しい出来事もあった。それでも家族は支え合って、それぞれの道を歩んでいる。かよは大学で教鞭をとりながら、今も国際NGOで世界の支援に従事し続け、子どもたちにその思いを背中で示そうとしている。いまでも家族が集まれば、世界各地域の社会問題について、幅広く議論することができる。これは当たり前のようだが、他の家族では簡単にできないことだ。これから社会に出る3人の子どもたちは、国際開発の仕事に取り組んだ両親のように、地球規模で人類のさまざまな課題に挑む仕事をしていくのかもしれない。