海外子女教育振興財団主催の第47回海外子女文芸作品コンクールの審査結果が発表されました。このたび、特別賞受賞作品をご紹介します。
このコンクールは、海外に在住する小・中学生が言語・風習・気候風土・治安など、日本と異なる生活環境の中で感じ、考え、感動したことを日本語で表現する力を育むために、1979年から毎年行われています。
今年の応募作品総数は31,196点(作文=2,057点、詩=2,538点、短歌=6,555点、俳句=20,046点)。日本人学校、補習授業校、私立在外教育施設等の先生方のご指導やご家庭でのサポートをいただき、多くの作品が集まりました。
これらの作品は予備審査を経て9月18日、海外子女教育振興財団(東京都港区)で行われた最終審査会において、文部科学大臣賞をはじめ、海外子女教育振興財団会長賞、後援・協賛者賞、特選、優秀、佳作が決定しました(特選・優秀・佳作・学校賞の審査結果は弊財団の文芸作品コンクールのサイトに掲載しています https://www.joes.or.jp/kojin/bungei)。
海外に暮らすお子さんたちの思いが息づく作品の数々を、どうぞご覧ください。
なお、今年の12月には、作品集『地球に学ぶ 第47回』が刊行される予定です。
こくみん共済COOP賞
小さな世界
ティルブルグ補習授業校(オランダ)
中2 鈴木 あさひ
「これが私達の文化なんだ。」
そう言って、私の前で彼女はまるで世界を代表するかのように、誇らしげに笑ってみせた。右手にカレーを乗せながら。
私は今、オランダのインターナショナルスクールへ通っている。約一年前にドイツの日本人学校から、ここへ転校してきた。戸惑うことも多かったが、周囲の温かいサポートのおかげで、比較的すぐに学校になれることができた。まだ英語は完璧とは言えないけれど、できるだけ周りの人とコミュニケーションを取ろうと、日々努力を続けている。
ある日のこと、私はインド人の友達から誕生日パーティーへ招待された。彼女と私は、毎日同じバスで通学しており、バス停で知り合った仲だ。学年は私の方が一つ上だが、そんな垣根を越えて、私をパーティーへ誘ってくれたことが心から嬉しかった。しかしその反面、胸の奥には小さな不安が広がっていた。パーティーへの参加者の中に、私の知り合いは一人もいないかもしれない。興奮と緊張が入り混じった、そわそわとした感情を抱えたまま、私は彼女の家のインターホンを押した。
案の定、そこにいたのは知らない顔ばかりだった。主役である彼女は私を、温かく歓迎してくれたが、次から次へと新しい人を紹介されるたび、私の心は圧倒されてしまった。じわじわとにじみ出てくる手のひらの汗を隠すように、私はぎゅっと握りしめた。
ゲームをして、プレゼントを渡して、ケーキを食べる。時間は思ったよりもあっという間に過ぎていった。それでも、どこかまだ周囲に溶け込めないような、居心地の悪さを心の奥で感じていた。その時だった。彼女のお母さんができたての晩ご飯をテーブルに並べてくれた。もうこんな時間か、気がつけば時計の針は夜の八時を指していた。オランダの夏の夜はまだ明るく、透き通った空の水色が雲の隙間から顔を覗かせていた。
お皿を受け取ると、そこには見たことのない異国の料理が並んでいた。中でも特に私の目を引いたのがカレーだ。日本のルーとは違う鮮やかな黄色。鼻腔をくすぐる複雑で鋭いスパイスの香りが私の興味を誘った。
「さあ、食べよう」そう思った瞬間、フォークやスプーンが無いことに気が付いた。取り忘れたのだろうか。不思議に思って周りを見た私は、思わず息を吞んだ。皆料理を「手で直接」食べていたのだ。頭を後ろから殴られたような衝撃だった。インドの人々が手を使って食事をする文化があることは、知識としては知っていた。だが、自分のすぐ目の前で、実際にそれを行っている人を見るのは初めてだった。これぞまさに、文字通りのカルチャーショックだった。
改めて部屋を見渡すと、このパーティーに集まったゲストの中で、日本人は私一人、それ以外は全員インド人だった。だからこそ、周りの人達にとっては、これが「普段通りの日常」なのだ。誰もが当たり前の様子でスパイスの効いたカレーを、手で口へと運んでいる。その光景を見つめている内に、私の心の中に恐怖と戸惑いがこみ上げてきた。なぜなら私は幼い頃にその文化を知ったときから、「手で食べると手が汚れてしまうし、不衛生ではないか」という偏見を、無意識に抱いて生きてきたからだ。ここで周りに合わせて手で食べるべきか、それともフォークを頼むべきか。初めて直面する異文化の壁の前で、周りをキョロキョロしていると、友達がそれに気付いて私の隣にやって来た。そして、手での食べ方を丁寧に教えてくれたのだ。どうやら、親指、人差し指、中指の三本の指を使い、下からすくうようにして口へ運ぶらしい。しかし、見るとやるとでは大違いで、想像以上に指先のコントロールが難しかった。私が困惑していると、異変を察した周りの人達が次々と集まってきた。「こうやるんだよ」「上手、その調子」。彼らは、手での食べ方が分からなかった私を笑うことなど決してなかった。それどころが、私が上手く食べられるようになるまで、何度も何度も熱心に、そして楽しそうに教えてくれたのだ。悪戦苦闘の末、とうとう手を使ってきれいにカレーを口に運べた時には、皆そろって自分のことのように歓声をあげ、拍手をして喜んでくれた。新しい体験が成功したことも、もちろん嬉しかった。しかしそれ以上に、右も左も分からない私に対して、誰もがこれほど優しく、丁寧に接してくれたことに、私の胸は熱くなった。「文化が違うから分かり合えなくて仕方がない」と境界線を引いて諦めるのではない。自分達のアイデンティティを共有し、分かってもらおうと歩み寄る彼らの姿勢に、私は深く感動していた。
「これが私達の文化なんだ。」
私に食べ方を教えてくれたゲストの内の一人、インドの鮮やかな民族衣装をまとった七歳の少女が、誇らしげにそう言った。眩しすぎる程の笑顔でそう言った彼女を見て、私は急に恥ずかしさがこみ上げてきた。インドの食文化に対して、勝手な偏見を抱いていた自分自身を強く恥じたのだ。
生まれ育った国が違えば、文化が違うのは当たり前のことだ。彼女たちは、自分達の文化に誇りを持ち、誰に何を言われようとも堂々としている。その姿が、私にとても格好良く見えた。
文化を共有し、皆で同じように手を使ってご飯を食べたことで、それまで名前も知らなかった人達との距離も一気に縮まり、仲良くなることができた。私はこのことを通じて、「違い」を単に遠ざけるのではなく、互いに共有し、受けとめることの大切さを改めて実感することができたのだ。
まだこの世界には、戦争や人種差別と言った悲しい問題が少なからず存在している。そうした大きな国際問題は、賢い大人達の手によって解決されることが多い。しかし、私達小さな子供達の周りにも国境を越えた様々なネットワークが広がっている。文化や人種の違いだけでなく、人間には人の数だけ考え方や思いがある。だからこそ、些細なことでぶつかり合ってしまうことは、これから先もあるだろう。しかし、「互いに分かり合おう」という歩み寄りの気持ちさえ忘れずに人と関わり続けることで、そこには必ず、想像もしなかった新しい発見があるのではないか。
私はこれまで日本やインドを始め、それぞれの国には国の数だけ違う文化があることを「知っている」つもりでいた。だが、それは単に教科書をなぞった知識であり、本当に心から理解し、受けとめていたわけではなかったのだ。
常識は、違って当たり前。自分達にとっての「当たり前」を、それが「当たり前ではない」人の視点から捉え直してみる。その時初めて、私達は本当の意味で世界を知ることができるのかもしれない。
広そうで狭い、そして遠そうで近いこの小さな世界で、私はこれからも様々な世界へ行き、たくさん人と出会い、面白い発見を見つけていきたい。そして今度は、私を温かく迎え入れてくれた彼らのように、私が日本の美しい文化を、堂々と世界へ伝えられる人になりたい。
日能研賞
いいかた
オタワ補習授業校(カナダ)
小1 原 一楓
ぼくはまいにちおかあさんに、
「きょうのゆうごはんはなに。」
と、ききます。
あるひおかあさんは
「おにくだよ。」
と、こたえました。ぼくはおにくでうれしいきもちでした。だけど、ぼそっと、
「きょうもおにくなの。」
と、いいました。おかあさんは、
「あら、おにくいやだった。」
と、ぼくにききました。ぼくはおにくでうれしかったのにおかあさんがなぜ「おにくいやだった。」ときいたかわかりませんでした。
おかあさんがそのあと、
「おなじことばでも、いいかたがちがうと、つたわりかたがちがうんだよ。」
とおしえてくれました。にほんごってむずかしいなとおもいました。
ぼくにはおにいちゃんがふたりいます。おにいちゃんたちとは、にほんごとフランスごではなします。どういうときににほんごをはなして、どういうときにフランスごをはなすかかんがえてみたけど、わかりませんでした。きづいたら、どちらかのことばをはなしています。
おにいちゃんたちとも、いいかたでけんかになることがあります。あそんでいるときや、なにかをしてほしいときのいいかたが、やさしくないことがあります。そんなときは、かなしいきもちになります。めいれいばかりではなくもっとやさしいいいかたで、はげましてほしいとおもいます。「かして」ということばも、「かして!!」といわれたらわたしたくないけど、「かーしーて」といわれたら、わたしてもいいかなとおもいます。フランスごにもていねいないいかたと、ていねいじゃないいいかたがあります。ていねいじゃないいいかたでおとうさんにいうと、いいなおさせられます。にほんごはおなじことをいっているのに、つたわりかたがちがうので、すこしむずかしいです。
もしぼくがにほんごをはなさなかったら、にほんのことがわからないし、にほんにいっても、ともだちやおじいちゃんおばあちゃんとはなせないのでかなしいです。おとうさんやおにいちゃんたちとはフランスごではなせるけれど、おかあさんはフランスごがじょうずではないので、ぼくがにほんごをはなせるようになれば、みんなとはなせるようになります。
じぶんのきもちをつたえるのはフランスごでもだんだんとくいになってきたけれど、にほんごがわかると、にほんのマンガをよんだり、テレビをみたり、ゲームをしたりできてたのしいです。いいかたがむずかしいこともあるけれど、これからもにほんごをべんきょうして、たのしいことをもっとたくさんしりたいし、ともだちともたくさんあそびたいです。