長年外交官として世界を飛び回った梅田邦夫さん。2020年に外務省を退職後、企業の社外取締役、大学の特任教授を務め、政治や経済を研究する複数のシンクタンクに籍をおき、さらに日本サッカー協会国際委員にも名を連ねるなど、「引退」とは程遠い日々を送っている。
闊達で明るい笑顔が印象的な梅田さんは、まるでスポーツ少年がそのまま成長したよう。
「なんで外交官になったのかわからない」という学生時代のエピソードから、その後の外交官人生で心に残っていること、そしてこれから取り組みたいことなど、情熱的に語っていただいた。
(取材・構成:只木良枝)
せっかく自分がかかわるのなら
多忙な「第二の人生」の中で、梅田さんが今特に力を入れているのは、技能実習生をはじめとした外国人材を育成・保護・支援する一般財団法人 外国人材共生支援全国協会(NAGOMi)の活動だ。
今、日本にはたくさんの外国人が働きに来ている。近年その数は増加の一途で、それとともに、残念ながら悪いニュースも増えている。生活苦からの逃亡、犯罪、悪質ブローカーの暗躍……。 そうした現状に、元在ベトナム大使をつとめた梅田さんの心は痛む。日本を目指すベトナムの若者の熱意を現場で感じてきたから、なおさらだ。
「アジア各地から来てくれた方たちに、日本に来てよかったと思ってもらえるような環境をつくりたいですね」
外国人材を受け入れる法整備は進んでいる。が、まだ不十分だと梅田さんは言う。NAGOMiでは、外国人材を単なる労働者としてではなく生活者として受入れるために、「外国人材共生基本法」制定を目指して運動を続けている。
「外国の方が共に暮らし、活躍できる場をつくっていかないといけません。私たちはあなた方をきちんとした形で受け入れますよ、と伝えないと」
ところで「外国人材」といえば、多くの人がアジアからの若者を連想するだろう。しかし梅田さんは、そこに自分がかかわるのならば、その対象を日系人にも広げたいと考えている。 ベトナムの前の梅田さんの赴任地はブラジルだった。ブラジルには約270万人の日系人がいる。若い頃には、同じく約20万人の日系人が住むペルーに駐在したこともある。
「現地にはたくさんの日系人コミュニティがあります。ワールドカップやオリンピック・パラリンピックなどの大きなイベントをはじめとして、ほんとうにたくさんの日系人の方に助けてもらったんですよ」
1990年から日系2世、3世に対しては日本の定住ビザが発給されるようになっている。それもあって、現在日本には約26万人の日系人が住んでいる。世界を見ると、なんと約500万人もの日系人がいるという。
「アジアに目が向きがちな外国人材との共生を目指す団体に自分がかかわるのなら、日系人への視点を持ちたい。少しでも日系人の役に立つことも、したいと思っています」
歴史的事件の場に居合わせる
子どもの頃から野球とサッカーが大好きだった梅田さんは、地元の中学では陸上部に所属。ところが、「練習も勉強もしない怠け者で、結果的に勉強が後回しになって高校受験に失敗しちゃった」のだそうだ。その反省から、高校では一念発起して猛勉強、京都大学に進んだ。
「今振り返ると、高校受験失敗は、天からの大きな贈り物だったなあと思います」
大学入学後はサッカー部に入り、1年生の秋からレギュラーで活躍した。当時の京大サッカー部は1部リーグで「それなりに強かった」。しかし梅田さんが2年生の時に2部リーグに転落してしまう。なんとかもう一度1部リーグにと全員で奮起し、梅田さんがキャプテンをつとめた4年生の秋に無事復帰することができた。
ところが、梅田さんはそこで我に返った。周囲を見渡すと1年生から司法試験の勉強をしている同級生もいて、梅田さんがサッカーに打ち込んでいる間に将来のための足場を固めつつあった。
「いや、これはまずい。自分は大学に何をしに来たのかなと」
本屋に行って棚を眺めた。興味があったのは経済と国際法なので、その勉強をして外務省を目指すのがよさそうだった。リーグ終了の翌日から勉強モードに突入し、無事、翌年の外交官試験に合格した。
「ところがね」と、ここで梅田さんは種明かしをするような笑顔になった。
「僕は大阪の下町育ちで、それまで外国人と話したこともない、海外旅行の経験もなかったんですよ。もちろん英語のコミュニケーションに自信があるわけでもない。こんな自分が外務省なんかに行っていいのかと」
迷ったが、最終的には「これも縁だろう、せっかく通ったのだからやってみよう」と覚悟を決めた。
入省後に受けた語学研修の講師が、生まれてはじめて話した外国人。人生初フライトは、その翌年のスペイン赴任のときだった。語学の苦手意識はなかなか消えず、国際会議の場で議長から「君は何が言いたいんだ?」と言われたこともあった、と梅田さんは苦笑する。
スペインのサマースクールで語学研修を受けていた時のことだ。ヨーロッパ各地から参加してきた学生は、流暢に会話をしている。そんなクラスメイトたちにちょっと気後れしていた梅田さんを救ったのが、得意のサッカーだった。
「休み時間に、みんなサッカーをやるんですよ。そこに入れてもらったら、お前、日本人なのにサッカーやるの? って感じでね」
サッカーの世界では、まだまだアジア各国の影が薄かった頃だ。「おや、なかなかやるじゃないか」と思われたのだろう。これをきっかけに打ち解け、友人もできた。
まさに、スポーツは世界の言葉だと、梅田さんは実感していた。
その後、梅田さんはフランス、インドネシア、ペルー、アメリカ、中国、ブラジル、ベトナムと海外赴任を重ねる。それぞれの土地が思い出深い、と梅田さんは振り返る。
「歴史的な事件のときにその場にいたということは、人生にとって大きな意味を持ちますね」
もっともつらい記憶のひとつが、アメリカの同時多発テロ事件だ。2001年9月11日。当時、梅田さんは国連代表部総務担当公使としてニューヨークで勤務していた。
「アメリカの空気がサッと変わりました。イスラム社会への目線が厳しくなり、好戦的になったことをよく覚えています」
数カ月間、日本人遺族のケアや、日本からやってくる政治家や要人の対応に忙殺された。
北京で在中国日本国大使館首席公使をつとめていた時には、北京オリンピック・パラリンピックという華やかなイベントの陰で、チベット騒乱、四川大地震、新疆ウイグル自治区の争乱などが相次いだ。殺虫剤が注入された中国製の冷凍餃子が日本国内で流通し、中毒患者が発生するという前代未聞の事件にも翻弄された。
2010年に、中国のGDPは日本を抜いて世界2位になっている。梅田さんは現地で、大国化していく中国という国を見つめ続けた。
ブラジル大使の時には、日系人社会との交流があった。日本社会は、あまりにこの人たちのことを知らない。その思いから、後に『ブラジル日系人の日本社会への貢献』(リフレ出版)を著し、日本で活躍する日系人たちを紹介した。
もうひとつ、ずっとかかわってきたのが「戦争の積み残し」問題だ。
女性のためのアジア平和国民基金による補償事業で、日本政府からの謝罪を受けて感極まって涙するフィリピンと台湾の女性たちの姿を目の当たりにしたときには梅田さんにもこみあげてくるものがあり、「この仕事をやっていてよかった」と思ったという。
中国残留日本人孤児の帰国後20年の里帰り事業、フィリピン残留日本人の日本国籍回復事業……。最後の任地のベトナムでは、訪越した当時の天皇・皇后両陛下に現地の残留日本兵の家族のために対面の場を作っていただき、続いて秋には墓参のための日本旅行も実現した。
「みなさんどうしてるかな、と、時々思い出すことがあります」
どちらが「世のため人のため」なのか
外交官としての仕事をする上で、梅田さんが心がけてきたのが、赴任する国の歴史を学ぶことだ。若い頃に先輩に言われたことをずっと実践してきた。歴史は、その国の文化と国民性を考えるときの原点となるものだから。
「それと、知らないことは遠慮せず、何でも訊くことですね」と梅田さんはニッコリする。
気取ったところがなく、関西弁混じりで繰り出される言葉は平易で、時にはクスっと笑いたくなるような「オチ」がある。そんな梅田さんと話すうちに、誰もが心をグッと掴まれてしまう。
持ち前の笑顔と話術と旺盛な好奇心で、梅田さんは各国でどんどん人脈を広げていった。赴任地の政府要人に直接質問したり、他国のベテラン外交官と意見を交わしたり。
「そういえばベトナム語のレッスンを受けていたとき、歴史とか町の話題とか、興味があることを質問しまくってしまい、ちっとも語学のレッスンになりませんでしたね」
ともかく知る、興味を持つ、訊きまくる。そして頼む。つまりは、現地の人との人間関係の構築だ。その繰り返しが、梅田さんの外交官人生だったのかもしれない。
そこから生まれた大小さまざまなつながりが、いつの間にか大きな絆に育っている。外交官引退後も各方面から引っ張りだこなのは、すべてこれまでに築いた梅田さんの人脈から仕事が生まれ、集まってくるからだ。
日本を離れて暮らす子どもたちへのメッセージを訊いたところ、梅田さんはちょっと考えて、「80年周期説って知っていますか?」と意外な言葉を口にした。 アメリカ独立戦争、南北戦争、第二次世界大戦という大事件が約80年おきに起こっていることから、国際秩序は80年周期で大きく変化しているという説で、政治学者のウイリアム・ストラウスとニール・ハウが提唱したものだ。
「第二次世界大戦終結から間もなく80年です。当時と大きく違うのは気候変動問題でしょう。この時代に、私たちは地球のありかたを考えていかないといけません」
だからこそいま海外に住んでいる子どもたちには、その国で今起きていることをしっかりと見つめてほしい。日本のニュースを見るのと同じように、その国のニュースにも注目してほしい、と梅田さんは言う。
「今あなたたちがその国で暮らしているのは『縁』です。 その土地のことを知り、現地の人々とのつながりを大切にして、いろいろ学んでください。それは自分の見識を広げることになりますから」
そして「何か物事を判断するときに、損得だけで考えると間違えることがありますよね」と、言葉を重ねた。
「判断基準は、『人として正しいことは何か』だと思うんです。簡単に言えば、どっちの道を選んだら世のため人のためになるか」
梅田さんは3人の子どもを帯同し、海外で育ててきた。
「いろいろ失敗もありましたよ」と笑う梅田さんは、同じ言葉を、子どもを育てる大人たちにも伝えたいという。
「親や周囲の大人がすべきことは、子どもたちが有意義な時間を持てるように、ともかく支えて愛を注ぐことではないでしょうか。もし迷うことがあったら、世のため人のためになるのはどっちか、そして子どもの将来にとって何が大切かを、考えてあげてください」
【プロフィール】 梅田邦夫(うめだくにお)さん 1954年広島生まれ。京都大学法学部卒。1978年外務省入省。国際連合日本政府代表部公使、外務省アジア大洋州局南部アジア部長、国際協力局長、ブラジル全権大使、ベトナム全権大使などを歴任し、2020年退職。現在、武蔵野大学特任教授、公益財団法人中曽根康弘世界平和研究所副理事長、一般財団法人外国人材共生支援全国協会副会長、公益財団法人海外日系人協会理事、日本サッカー協会国際委員等をつとめる。
著書:『ベトナムを知れば見えてくる日本の危機: 「対中警戒感」を共有する新・同盟国』(小学館、2021年)
『ブラジル日系人の日本社会への貢献』(リフレ出版、2023年)一般財団法人 外国人材共生支援全国協会(NAGOMi) 公益財団法人 海外日系人協会