アメリカ・ミシガン州で暮らす、ジョンソン紅海さん。大阪で教員をしていた父親が文部科学省の海外派遣でサウジアラビアの日本人学校に赴任中に生まれ、2歳で日本に帰国、小学校卒業までを滋賀県で過ごした。その後、4年間をアメリカ・オハイオ州で過ごし、高校2年生で大阪にあるインターナショナルスクールへ編入。その後25歳で父親の転勤に同行する形で再びアメリカ・テネシー州へ。補習授業校の教員を務め、現地で就職。アメリカ人の夫と結婚してミシガン州へ引っ越し、現在は育児中心の生活を送っている。様々な土地で続けてきたことや続けられなかったこと、今の心境や将来への展望について、話を聞いた。
(取材・執筆 Makiko)
渡米、そして帰国
-紅海さんはお父様が日本人学校や日本語補習校の教員だったのですね。
父の初めての海外勤務先だったサウジアラビアで生まれました。私は2歳で帰国したので記憶はあまりありませんが、小さいながらに珍しいところに旅行にも連れて行ってもらっていたようです。帰国後は滋賀県の公立小学校に通いました。卒業直前に、父がオハイオ州に赴任することになり、引っ越しました。英語は全くできませんでしたし、わからないことばかりでしたが、辛いとは感じなかったですね。その頃は平日通っている現地校をどうにか生き抜いて、土曜日に補習校で何も気にせずにお喋りをするのが自分へのご褒美でした。周りが何を話しているのかが理解できるのって幸せだなと、癒されていましたね。
現地校では電子辞書を肌身離さず持ち歩いて、友達ともそれで会話をしていましたが、数年経ったある日、「今日は電子辞書いらないや」と、家に置いて行ったのを今でも覚えています。そこからは問題なく現地校にも通えるようになりました。
-高校2年生で帰国して、インターナショナルスクールに編入されたのですね。
私は学習言語としては日本語の方が強いので、日本語でも英語でも授業を受けられるスタイルの学校に編入することができたのは、よかったです。ただ、よくある話かもしれませんが、渡米した時より帰国した時の方が適応に時間がかかりました。帰国、編入、そして初めての寮生活だったので全ての環境が変わりましたし、アメリカでは人間関係で悩んだことがなかった分、人付き合いに慣れず少し苦労しました。
国際協力に打ち込んだ学生時代、再渡米と結婚
-立命館アジア太平洋大学(大分県)ではサークル活動に励まれていたそう。
タイの田舎にある小学校を支援するサークルがあるということがこの大学を希望した決め手でした。留学生が多く、国際的な環境な上に祖父母が九州にいて馴染みがあったことも大きかったです。小さい頃から子どもが好きだったので、子どもと関わりながら支援がきるこの活動にはかなり入れ込んでいました。でも徐々に、上下関係や、敬語、「間違っていることを間違っていると言えない」環境が辛くなって行きました。活動以外の会議や議事録作成に長い時間をかけなければならないのも理不尽に感じました。中学校はアメリカ、高校はインターだったので、日本独特の風習を経験したことがなかったんです。そこでは色々な違和感を抱えましたが、他にも大分県の地域の子どもたちと大学生を交流させるようなサークルの代表も務めました。
-25歳で再びテネシー州に行かれるのですね。
会社に入るより個人で何かしら頑張りたいと東京に出ましたが、夢と現実の間で彷徨っていました。そんな時、両親がテネシーに赴任になり、付いていくことにしました。現地の語学学校に通いながら、補習校の教員として働きました。でも、英語はそもそも基礎があったので、ものの3カ月で卒業しなければならないことになりました。学生ビザで渡米していたので、語学学校を卒業してしまうと、帰国しなければなりません。その頃、語学学校の先生から「英語を上達させるには彼氏を作りなさい」というアドバイスをもらい(笑)、付き合った人と結婚の話になりました。
結婚してアメリカに残ることになりましたが、それが「正解」なのかとかなり葛藤していました。その後はアジアンフェスティバルという活動の手伝いをしたり、補習校の教員と並行して現地の日系企業で事務の仕事をしたりしました。
ただ、結婚して引っ越しもあり、地域との繋がりがリセットされてしまって落ち込む時期もありました。会社で働きながらも、もっと自分に合った働き方を見つけたくて、YouTubeコンテンツを作ったり、日本語を教えたり、ブティックストアで働いたり。
この頃までは「何をすることが正解なのだろう」「ちゃんとしないと」という考えが強すぎて、「何かを成し遂げなければならないのに、できていない」と自信をなくすことが多かったです。それでも、正解がわからない中で出した決断を「正解」にしていくのは自分次第なのだと、心を決めました。
出産して、今思うこと
-現在はミシガン州でどのような生活をされていますか?
2歳半の子どもがいるので、ほとんど育児中心の生活です。不妊治療の末授かったこともあり、育児という、一つの「やりたいこと」にようやく集中して取り組めています。趣味の家庭菜園や刺繍を楽しんで、育児の合間にマタニティスティッカーや服などのデザインをしてオンラインで販売したり、日本語も時々教えたりしています。
夫の家族はテネシーで、自分の家族は日本です。このミシガンで、子どもが家族と思えるような友人に囲まれて育っていけるような基盤を作り続けたいですね。今ではかけがえのない時間を、難しいこと抜きに「楽しむ」ようになりました。
-アメリカは保育園が高額ですし、子どもが小さいうちは家庭に専念する人も割といますよね。今後の展望はありますか?
色んな場所で色んな葛藤を乗り越えてきたので、将来の自分もなんとかやっているだろうと楽観視はしています。これまでは色々な経験を通して「点」をたくさん作ってきたので、やっと落ち着ける土地を見つけた今後はそれを「線」に繋げて行くのが課題かもしれません。
先日、昔住んでいたオハイオ州へ、当時の友人の結婚式のために行ってきました。かつて子どもだった自分が通学バスで通っていた道を大人の自分の運転で走るのは、感慨深かったです。当時は帰国などで友人と別れることを悲しんでいましたが、今回再会して、私は何も失ってはいなかったんだ、と実感しました。別れはあっても、それは「失う」ことではない、と今なら思います。これからも人との繋がりを大切に、30代らしく楽しんでいきたいです。