「名作」とは何でしょうか? 辞書には「すぐれた作品」や「有名な作品」などと載っています。しかし、世の中には「すぐれた作品」など無数にありそうですし、有名な作品もたくさんあります。
それらは皆さんにとって全て「名作」なのでしょうか。名作がそれほどたくさんあるのならば、いちいち選ばなくてもひんぱんに名作に出会うのではないか、と思ってしまいます。一体何が名作で、名作はどこにあるのでしょうか。
文・パリ国際学校国際バカロレア日本語学科教師 石村清則
現代の多様な問題について考える
夏目漱石の小説『こころ』を例に取ってみましょう。読んだことはなくても、作家の名前と本の題名を聞いたことがある人がほとんどだと思います。教科書で取り上げられることも多く、客観的に見て「名作」であると言う事に多くの人が賛成するかもしれません。
しかし、なぜ名作と言えるのでしょうか。文豪・夏目漱石が書いたからでしょうか。そうではなく、逆に『こころ』などの優れた作品を書いたから、夏目漱石が有名になったと考えた方が納得がいきます。
私は長い間、中学2年生または3年生の授業に『こころ』を教材として使ってきました。中学生では少々難しい内容かもしれません。確かに漢字や語彙のレベルは高いのですが、ストーリーは中学生でも十分に理解できます。
主人公の「私」は「先生」と出会い、交流を重ね心酔するようになりますが、先生は何か恋愛に関する秘密があるようで、それが最後に先生の遺書によって明かされます。先生はかつて信頼していた叔父に裏切られ人間不信に陥りました。その後下宿先のお嬢さんに恋心を抱きますが、Kという同郷の友人に対する劣等感故に優越感を持ちたくなり、彼を援助し下宿に一緒に住むことを勧めます。しかしKもお嬢さんに恋をしてしまいます。先生は自分の恋心を隠し、恋愛と精神修行の間で葛藤するKを追い詰めます。
結局Kは自殺し、先生はお嬢さんと結婚しますが、Kを裏切ったということにより、自己不信に陥り最終的に先生もお嬢さん(当時は奥さん)を残して、「私」に全てを告白した遺書を送り自殺します。「私」は故郷にいましたが、瀕死の父親を残し、既に死んでしまっているであろう先生のために汽車に乗り込みます。
暗い作品かもしれませんが、恋愛と死が出てこない文学作品は存在しません。なぜならそれは人間の営みそのものだからです。私達も恋をして、最後は死へと向かって行きます。
先生の自殺について中学生達と議論をすると、実に面白い考えが出てきます。「自分ならば絶対に自殺しない。Kにお嬢さんを譲る」、「お嬢さんは自分のものだとKに言うから、Kはお嬢さんに恋をしない」、「Kが死んでもそれは仕方が無いから、自分は死なないで生きていく」など、様々な意見が交わされます。
そして、現在の恋愛と比較すると、こんな大変な状況になる前に止めると多くの生徒が言います。恋愛というとその後に結婚が必ず控えていると考えていた私の世代に比べて、現代の若者の方がスマートなのかもしれません。
「私」と先生との関係についても議論します。「私」はなぜ先生にすぐ惹かれたのか。なぜまるで恋人のように先生の後を付けたり、家に訪れたりするのか。今ならストーカーになってしまいます。彼は同性愛者だったのでしょうか。多分そうではありません。
明治の後半という時代は、そう簡単に若い男性と女性が出会う場面はありませんでした。ですから男性は男性と、女性は女性と付き合う時間が長かったのです。今の男子校や女子校でもあるかもしれませんが、同性だけの中にいると「疑似恋愛」が起こりやすくなります。この場合は、いずれ異性へと恋心が向いていきます。その前の過渡期なのです。これは『こころ』の中で先生が「私」に指摘していることでもあります。
とは言え、世の中は男性と女性だけが存在しているわけではありません。心と身体の性が違う人もいますし、同性に惹かれる人もいます。恋愛に関心が持てない人もいますし、自分の性が明確に分からない人もいます。いわゆるLGBTQ+の問題です。これらを話し合うことも『こころ』によって可能になります。明治を舞台にして大正時代に描かれた作品で、現代の重要な課題について考える事ができるのです。
時代をさかのぼってみましょう。吉田兼好の随筆『徒然草』はどうでしょうか。
中学か高校で一度は目にすることが多いでしょう。古文ですし、内容も硬いものだったら、つまらないと思うかもしれません。
しかし、全段を読んでみると、実に面白いことが書いてあります。
例えば兼好はある女性に頼み事をするために手紙を書きます。そうしたら返信で「今朝は雪が降って美しかったのに、それについて一言も触れないような人の頼み事なんか聞けません!」とやられてしまいます。「いやあ、まいったまいった、俺の負けだ」と言っている兼好の姿が見えてきます。
別の段では、妻を持った男をけなしています。平凡な女を素敵な女性だと思っているのだろうからみっともないし、美しい女だったらかわいがってあがめ奉っているのだろうと思うと情けない、と言っています。さらに、家を上手く切り回している女はやりきれないし、子供が生まれてかわいがっているのも情けない、とまで言っています。どう見ても兼好が女性に振られた悔しさで、妻のいる男性をやっかんでいるのではないかと想像してしまいます。
友人として良いのは、物をくれる人、次に医者、そして知恵のある人とも言っています。となると、ずいぶん打算的だなあ、でも正直かなとも思います。こうしてみると、現代と変わらないようですし、兼好は種々の意味で人間的だという事が分かります。いつも「格好良い」事ばかりを言っているわけではないのです。もちろん、深く考えさせてくれることも書いています。
兼好は肯定的無常観の持ち主です。つまり、全てのものには終わりがあるから良い、という考えです。人間は他の生物と比べると長生きです。それに満足せず、ただひたすら長生きを求めても意味は無く、千年生きようとも一瞬のように感じるだろう、と考えます。長さではなく質が大切で、終わりがあることをしっかりと意識して、それ故に今を大事にして生きる事が重要だと説くのです。これは現在のQOL(Quality of Life)につながります。できることならば、寝たきりで何年も過ごすより、短くても元気で最後まで過ごしたいと私も思います。どのように生きるべきかというのは、人間にとって永遠の重要課題です。
祭りの見方でも、御神輿の通る前から人が集まって来る様子や、通り過ぎて人がいなくなっていく様子までを見てこそ、味わい深いと言っています。兼好はここに人生の栄枯盛衰を見ているのです。恋愛も相思相愛の恋だけではなく、叶わなかった恋や思い出となった恋も良いものだと述べます。確かに一人の人間を知るには、その人の一番良い所だけを見てはいけないでしょう。その人の長所も短所も知って、それらを全て含めて一人の人を「知る」という事になるのです。
小林秀雄という優れた評論家がいました。彼は大学生に「どのように読書をすれば良いでしょうか」と聞かれた時に、トルストイ全集を半年間何度も繰り返して読みなさい、そしてその間他の本は読まないようにと言ったそうです。しかも全集にある手紙や日記や雑文全てを含めてです。トルストイを知るためには『アンナ・カレーニナ』や『戦争と平和』を読むだけではいけないのです。できるだけ多角的な面から近付いていく必要があります。哲学者はいつも哲学のことだけを考えている訳ではありません。「お腹がすいたな」、「今すれ違った人、素敵だったな」、「犬を飼いたいけど、世話が面倒だな」などと色々な事を考えています。それらを知ってこそ、その人に近付いていけるのです。こんなことを『徒然草』は教えてくれます。
古い作品を例に挙げてみましたが、これらがもし「名作」であるとすれば、それは今でも重要なことに関して色々と考えさせてくれるヒントがたくさん見つかるからでしょう。
私が教えているIB(International Baccalaureate)では「グローバルな問題」を自分で見つけて考える事が求められます。人種、時代、場所等に関係無く、誰にとっても大切な問題のことです。『こころ』で恋愛、自殺、性の問題を、『徒然草』で人生、生と死、家族などの問題を考えるのがグローバルな問題となります。つまり「名作」の条件とは、時代や場所を越えて考える事のできる問題を提供してくれることなのです。