AIが翻訳も通訳もこなす時代に、わざわざ外国語を学ぶ必要はあるのか——。そんな問いに「ある!」と答えるのが、日本大学法学部の町田章教授です。専門は認知言語学。言葉を思考や文化と切り離さずに捉えるその立場から見ると、外国語学習にはコミュニケーション以外の豊かな意味が見えてきます。2025年に刊行された著書『AI時代になぜ英語を学ぶのか』(文春新書)の内容を軸に、言葉と思考の関係、そして幼少期に異なる言語に触れることの価値について聞いた。
(取材・執筆:minimal 丸茂健一)
町田章教授
言葉は人間の認識や文化と切り離しては理解できない
——町田先生のご専門である「認知言語学」「認知文法理論」とは、どのような研究分野なのでしょう?
認知言語学とは、「言葉を人間の認識や文化と切り離さずに研究する分野」と言えると思います。言語学というのは、言葉を研究する学問です。ただ、言葉というものは本来、人間の思考や認知、文化と分かちがたく結びついています。ところが、近代の言語学の主流では、言葉を思考や文化からいったん切り離し、言語そのものの構造に集中して研究しようという考え方が強くありました。
それに対して認知言語学は、「いや、言葉は人間の認識や文化と切り離しては理解できないのではないか」と考えます。つまり、言葉を使う人間が、世界をどう見ているのか、物事をどう捉えているのか、その認識のあり方まで含めて言語を考えていくわけです。これは、文化人類学などにも通じる研究領域だといえます。
例えば、世界には「右」「左」という概念を持たない言語があります。その話者は、「右」「左」の代わりに「方角」を認識する能力を身につけていると言われています。面白いのは、これは特別な才能ではなく、人間なら誰でももともと持っている能力だということです。私たちは「右」「左」ということばを覚えた結果、「方角」を常に認識する力を手放してしまったわけです。
日本人が英語の「L」と「R」の音の区別を苦手とすることも認知言語学的に考えると非常に興味深い現象です。人間は赤ちゃんの頃、潜在的にはさまざまな音を聞き分ける能力を持っています。しかし、日本語では「L」と「R」を区別しません。そのため、日本語を習得する過程で、その区別はだんだん必要のないものとして、そぎ落とされていきます。
人間の知識や能力は、赤ちゃんからどんどん「足し算」で増えていくイメージがありますよね。しかし、実は不要な部分を「刈り込む」という引き算も同時に起きている。日本語環境で育てば、日本語を効率よく使うために、日本語で必要のない音の区別は削られていく。これが認知言語学的なものの見方の一つです。人間の脳が少ないエネルギーで効率よく情報を処理できる秘密もここにあるでしょう。
未来が向かう方向も言語や文化によって異なる
認知文法理論は、こうした発想で文法現象を説明していく分野です。たとえば英語の to。前置詞の to は「到達点」を表しますよね。be going to が未来を表すのも、空間的な「到達点」が、時間的な「行き着く先=未来」へと比喩的に拡張されているからなのです。私たちは時間を、空間のなかを移動していくものとして捉えている。実際、世界の言語を見ても、「行く」「移動する」を表すことばが未来の文法に発展していく例は珍しくありません。
そこには文化も深く関わっています。日本人は未来を「前」、過去を「後ろ」と捉えますが、文化によっては未来が「後ろ」で過去が「前」という言語もある。「過去は見えるが未来は見えない、だから見えない未来は背中側にある」という捉え方です。このように、文法や表現の背後には、人間が世界をどう捉えているかという認識の仕組みがあります。認知文法理論は、そうした視点から文法現象を考える研究分野だといえます。
相手と自分が同じものを見ている感覚=「間主観性」
——そのなかで、先生が最近注目している研究テーマは何でしょうか?
最近、私が注目しているのは、「間主観性(かんしゅかんせい)」というテーマです。主観とは、一人ひとりが持っているものの見方や感じ方のことです。ただ、私たちが完全にバラバラの主観だけで生きていたら、コミュニケーションは成り立ちません。会話をするときには、相手も自分とある程度同じものを見ている、同じことを理解している、という前提があります。そのように、主観が人と人との間で共有されている状態を「間主観性」と呼びます。
言語は、この間主観性の上に成り立っているところがあります。相手と自分が、同じものを見ている、同じ文脈を共有している、という感覚があるからこそ、言葉は通じるわけです。ただし、この間主観性のあり方は、日本語と英語ではかなり違うのではないかと考えています。
日本語では、話し手と聞き手がかなり強く同化する傾向があります。相手も自分と同じことを考えているだろう、同じ文脈を共有しているだろうという前提が強い。そのため、主語を省略しても通じるし、英語の「the」や「a」にあたる冠詞がなくても会話が成り立ちます。
例えば、日本語では、「昨日、本屋で本を買った」と言えば、それが1冊なのか複数なのか、特定の本なのかそうでないのかを明示しなくても、通常は問題になりません。ところが英語に訳そうとすると、「a book」なのか「the book」なのか、「books」なのかを決めなければならない。英語では、相手と自分は違う存在であり、明示しなければ伝わらないという前提が強いのです。
日本語では「言わなくてもわかるでしょう」という感覚がありますが、英語では「言わなければわからないでしょう」という感覚がある。この違いは、単に文法の違いではなく、コミュニケーションにおけるスタンスの違いなのではないか——。そこを間主観性という観点から研究しています。
外国語を学ぶことは「文化や思考の多様性」に触れる絶好の機会
——先生は著書で、AI時代にも英語を学ぶ意味はあると述べています。その理由は何でしょうか?
AI翻訳や生成AIが発達してくると、「もう英語を学ばなくてもいいのではないか」と考える人も出てくると思います。確かに、単に用件を伝えるだけであれば、機械翻訳で十分な場面は増えていくでしょう。レストランで注文する、道を尋ねる、メールの大意をつかむ。そうした場面では、AIは非常に便利な道具になります。
しかし、私は外国語学習の意義をコミュニケーションだけに限定して考えるべきではないと思っています。これまでの英語教育では、「英語はコミュニケーションの道具である」ということが強調されてきました。それ自体は間違いではありません。ただ、英語を学ぶ意味はそれだけではありません。外国語を学ぶことは、別の文化を学ぶことであり、自分とは異なるものの見方を学ぶことでもあります。
先ほどお話ししたように、言語が違えば、世界の切り分け方も変わります。日本語には日本語の発想があり、英語には英語の発想があります。英語を学ぶということは、単語や文法を覚えるだけではなく、英語話者がどのように世界を見ているのか、その認識の枠組みに触れることでもあるのです。
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認知言語学の立場から強調したいのは、外国語を学ぶことは、「文化や思考の多様性」に触れる絶好の機会だということです。例えば、バイリンガルの人は単に2つの言語を話せるだけでなく、2つの思考法を手に入れている可能性がある。つまり、外国語学習の意義とは、母語とは異なる新たな思考法があることを知り、複眼的に世界を見る知力を養うことにつながるのです。
人間が一度に注意を向けられる量、つまり認知のリソースは、思っている以上にごくわずかです。だから日本語だけで考えていると、どうしても取りこぼしてしまうものが出てくる。ところがバイリンガルの人は、日本語以外の視点も併せ持っている。「ルビンの盃」という有名な図がありますよね。向かい合う2つの顔にも、1つの盃にも見える、あの絵です。同じ絵が一瞬で切り替わる。バイリンガルの人は、ものを見るときにこの切り替えを高速でやっているのではないかと私は考えています。

例えば、犬を見た瞬間、彼らの頭には「犬」と「dog」 の両方が浮かぶ。そのうち片方を抑え込んで、いまの場面にふさわしいほうを口にする。この「抑制する」という作業は、脳にとってかなり負荷が高い。ただ、このトレーニングを毎日続けていれば、脳は鍛えられていきます。これは筋肉と同じです。だからバイリンガルの人は認知能力そのものが高まるという仮説も成り立ちます。
幼少期に海外で過ごす経験は耳を日本語仕様に限定しない効果も
——幼少期に海外駐在で多言語を学んだ子どもの脳内は、どういう状態なのでしょう?
子どもの脳は、理由を考えずに、聞いたものをそのまま吸収していきます。これは実は、いまのAIの学習方法ととてもよく似ています。AIは膨大なデータを取り込んで、統計的に「確率の高いもの」を予測していますよね。脳もまさに同じで、聞こえた言葉をどんどん蓄積している。だから、「複数の言語が入ってきて混乱するのでは」と心配されますが、おそらく混乱は起きていないと思います。とにかく聞こえたまま、そのまま頭に入れていくだけなのです。
理由を考えずに丸ごと覚える、というのは子どもがとても得意なことです。掛け算の九九を、耳と口だけで覚えてしまうのと同じですね。大人は「理由もわからずにとにかく覚えろ」と言われると苦痛ですが、小さい子は平気で吸収していく。
「刈り込み」のタイミングについてよく聞かれますが、これはある日突然できなくなるものではなく、長い年月をかけて少しずつ進む、生涯続くプロセスです。ただ、音声に関しては比較的早い。「L」と「R」の聞き分けなどは生後10カ月前後と言われていますし、発音も4~5歳くらいまでなら比較的容易にネイティブのように身につけられると言われています。だから音やリズムに関しては、たしかに早いほうがいい。幼少期に海外で過ごすというのは、耳を鍛えるというより、「日本語仕様に閉じてしまう前に、耳を開いたままにしておく」効果があるといえます。
最近、AIの音声認識が格段によくなりましたよね。あれは、音声入力の精度が上がったことだけが理由ではありません。文脈のなかで「ここではこういう単語が来るはずだ」と予測しながら出力しているので、多少おかしな発音でも認識できるようになったのです。実は私たちの頭も同じことをやっていて、スポーツ男子が「あざーっす」と言ったら、「ありがとうございます。」と補正して聞くことができる。英語のリスニングも同様で、ただ耳を鍛えるだけでなく、文脈から予測しながら聞く力も欠かせません。海外で暮らす子どもたちは、こうした学習を自然に行っているのです。
言語習得の過程で吸収している「何か」に意味がある
——幼少期に母語以外の言語を学ぶ意義とは何でしょうか?
幼少期に母語以外の言語を学ぶ意義は、単に「将来、英語が話せるようになる」ということだけではありません。もちろん、発音やリスニングの面では、幼い頃に触れておくことに大きな意味があります。音声に関する「刈り込み」は比較的早い時期に起こるため、幼少期にさまざまな音に触れることは、その後の言語学習にとって有利に働く可能性があります。
また、言葉を身につけていく過程そのものが、たくさんの学びを含んでいます。とりわけ大きいのが、後からでは学びにくい「深い文化」に触れられることです。例えば、日本語では「ノート型パソコン」と言いますが、英語では laptop と言いますよね。lap は「膝の上」のことです。面白いのは、立っているときは lap ではない。座って、膝の上に乗せる形になって初めて lap になる。日本語には、この lap にぴったり当たる言葉がありません。こういう違いに気づくのが外国語学習の面白さでもあります。
私たちは普段、犬を「犬」と呼ぶのを当たり前だと思っていて、そこに「実体としての生き物に〈いぬ〉という音をくっつけただけ」だという意識はありません。でも、それが dog とも呼ばれると知った瞬間、「ああ、〈犬〉も〈dog〉も、あくまで後からくっつけた記号なんだ」と腑に落ちる。そして、そのくっつけ方そのものが文化なのだと気づくわけです。
大切なのは、こうした高度な学びを本人が意識していないことです。気づかないくらい自然に、ものの見方の幅を広げている。つまり、ペラペラ話せるようになることが目的なのではなく、その過程で何かを確実に吸収している。そこにこそ意義があるのです。
自分の中に世界を見る視点が複数ある——それこそが財産
—— 最後に、帰国子女・海外子女の方々へメッセージを。彼らが海外で得た財産とは、何だと思われますか。
いちばん伝えたいのは、「たとえ流暢に話せるようにならなかったとしても、何も学ばなかったことにはならない」ということです。日本では、話せるか話せないかで判断されがちで、話せなかったら「学習に失敗した」と思われてしまう。でも、それは二元論にすぎません。話せるところまで行った人もいれば、行かなかった人もいる。けれども後者だって、何も得ていないわけでは決してないのです。
異なる言語の環境に放り込まれた子どもは、おそらくすべてが驚きの連続です。言葉が通じない外国の子の家に行って、巨大なトイレに驚き、大きな庭でバーベキューをする文化を知る。これは本当に強烈な経験です。面白いのは、これができるのは子どもだからこそだという点です。大人になると、言葉の通じない環境に入っていくのは怖くてたまらない。しかし、子どもは、言葉が通じなくても平気で一緒に遊んでしまう。こうした経験をたくさん積んだ人は、外国の人と関わるときの心理的なバリアがずっと低くなるのだと思います。実際、企業もそういう資質に注目していますよね。どれだけ話せるかも大事ですが、「相手を怖がらない」というのは、それ以上に大きな強みになるのです。
もう一つの大きな財産は、「日本を客体視する視点」です。中にいるとわからないけれど、外から眺めると「日本にはこういう特徴があるんだ!」と見えてくる。たとえばお菓子の袋。日本のものは驚くほど開けやすくできていますが、海外では、どう開けたらいいのかわからないことがある。そこで初めて、「日本は使う人の気持ちを考えてものをつくっている」と気づく。こうやって自分の国を冷静に外から見られるようになるのは、本当に大きいことです。
自分の中に世界を見る視点が複数ある。一つの言語、一つの文化だけを絶対視しない感覚がある。それこそが、帰国子女、海外子女の大きな財産だと思います。AIが発達し、翻訳が簡単になった時代であっても、人間が別の言語環境で感じた戸惑いや驚き、うまく伝わらなかった経験、逆に通じたときの喜びは、簡単には置き換えられません。そうした経験を通して、人は自分の見方を広げていきます。
外国語を学ぶこと、海外で暮らすことの価値は、最終的にどれだけ流暢に話せるかだけでは測れません。むしろ大切なのは、自分とは違う世界の見方に触れ、それによって自分自身の見方も変わることです。帰国子女、海外子女の皆さんが得ているのは、まさにその力なのだと思います。
【プロフィール】 町田 章(まちだ・あきら) 日本大学法学部教授。専門は認知言語学。1970年、群馬県草津温泉生まれ。成蹊大学経済学部卒業。青山学院大学大学院文学研究科英米文学専攻修士課程修了。大阪大学大学院文学研究科文化表象論専攻博士後期課程単位取得退学。長野県短期大学准教授、広島大学大学院人間社会科学研究科准教授を経て現職。著書に『AI時代になぜ英語を学ぶのか』(文春新書)、『AI時代に言語学の存在の意味はあるのか?——認知文法の思考法』(ひつじ書房)など。






