アメリカ・サンディエゴで暮らす父ヒロユキと母ハルミ。そして、同地で生まれたマコは、5歳から13歳までの間、現地校と週1回の日本語補習授業校に通いながら、アメリカと日本の2つの文化と言語の中で育った。ハルミもまた、マコと次女メイの子育てに励みながら、日本語補習授業校で教師として働き、現地の人たちとの交流にも積極的に取り組んだ。今回は、家族で過ごしたサンディエゴでの日々について、ハルミとマコに当時を振り返ってもらった。
(取材・執筆:武藤美稀)
子どもの誕生と新しい仕事、ハルミの海外生活がスタート
いつか海外で仕事をしたいという夢を持っていたヒロユキが、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴの法律事務所で働くことになった。それにより、ハルミが渡米したのは2008年12月のこと。こうして、2人の海外生活がスタートした。
「英語を話せるようになりたいという気持ちは昔から強かったので、アメリカでの生活を通して、言語や文化に触れられることを楽しみにしていました。心配事といえば車の運転や、危険に巻き込まれないかどうか。最初は2~3年で帰国するつもりでしたが、1年を通してあたたかい気候と人に恵まれ、さらに娘が2人生まれたこともあり、サンディエゴには長く住むことになりました」(ハルミ)

2010年に長女マコ、2016年に次女メイをアメリカで出産したハルミは、2023年12月までの約15年間をサンディエゴで暮らすことになる。マコが生まれてから、家族はリンダ・ビスタという地域のコンドミニアムを購入。現地の日本人が多く住むエリアからは少し離れていたが、サンディエゴは車社会のため、その点で不便を感じることは少なかったという。
「3カ月ほどカナダに短期留学していた経験はありましたが、引っ越した当初は英語で思うように話せず、焦ったり恥ずかしい思いをしたりすることが多くありました。そうしたときは、ひとりで抱え込まず、気持ちを打ち明けられるコミュニティがあることで楽になりました。私の場合、子どもが生まれる前からESLクラスに通っており、そこで感情をシェアできたことが心の支えに。また、子どもが生まれた後は地域の育児クラスに通い、子育ての悩みをほかのお母さんたちと共有していました」(ハルミ)

「子育てと並行して、サンディエゴ補習授業校みなと学園で約6年間、教師として勤務しました。日本の大学で教員資格を取得し、実際に子どもたちに勉強を教えた経験もあったことから、一度は教師として働いてみたいと考えていたんです。娘たちを育てる中で、自分にも何かできる仕事はないかと思い、みなと学園に応募し、念願だった教師として働くことができました」(ハルミ)
マコはみなと学園で日本文化を学ぶ
「小さい頃の記憶で印象に残っているのは、現地校でアイリッシュ系アメリカ人の友達とずっと一緒にいたこと。ブランコに乗っているときに出会い、初めてできたベストフレンドでした。当時は、『将来は彼女と結婚するんだ!』と思っていましたね(笑)」(マコ)
マコは5歳から帰国するまでの8年間、平日は現地校、土曜日はみなと学園に通っていた。みなと学園は、サンディエゴに住む日本人の子どもたちが帰国後スムーズに日本の生活に馴染めるよう、日本の学校における算数、国語等の主要科目の授業を行うことを目的としている。日本の文部科学省及び外務省の支援を受け、日本の教育課程に準じた授業を、毎週土曜日に日本の教科書を使用して日本語で行っている補習授業校。マコは当時、週に6日も「学校」に通わなければならないことが嫌だったというが、今ではみなと学園での経験に感謝しているという。
「みなと学園では、自分と似たようなバックグラウンドを持つ友達と出会うことができました。それまで、他の人には共感してもらえなかった悩みを共有し合うことができ、彼らは私にとってかけがえのない存在になりました。今でも連絡を取り合っている友達も多くいて、夏休みを使ってこちらに遊びに来てくれる子もいます」(マコ)

みなと学園では、運動会や夏祭りなど日本の行事も体験した。運動会では、この日のためだけに現地の高校の倉庫に保管してもらっている用具を使い、大玉転がしや障害物競走などの競技を楽しんだ。夏祭りでは、浴衣を着て、みんなで輪になって盆踊りを踊った。こうした経験を通して、日本の行事についての理解を深めることができ、何よりもとても楽しかったとマコは話す。
現地校で広がった人とのつながりと交流
アメリカでは、公立学校の場合、原則、住んでいる地域で通う学校が決められるが、州や学区によっては学校を選べる制度がある。ハルミは、マコに平和な学校生活を送ってほしいという思いから、現地校はSan Diego Cooperative Charter Schoolを選んだ。この学校は、小さなコミュニティで子どもたちを育てるという教育方針を掲げており、宿題は課さず、親と会話をしたり本を読んだりする時間を重視していたという。
「マコが通っていた学校はダイバーシティを尊重しており、私たち日本人家族にもあたたかく接してくれました。印象に残っているのは、次女メイが生まれたときに、マコのクラスメイトのお母さんたちがフードドライブといって、毎日交代で食事を作って届けてくれたことです」(ハルミ)

現地校は、自宅から車で7分ほどの場所にあった。宿題はなかったため、マコは帰宅後、友達の家に遊びに行ったり、コンドミニアムのプールで泳いだり、習い事に通ったり、みなと学園の勉強をしたり自由に過ごしていた。学校の行事にも積極的に参加し、夏休みのサマーキャンプでは、小さい子どもたちと遊んだり、勉強を教えたりするボランティアをしていたという。
「私たち夫婦も積極的に現地校のボランティアに参加しました。夫はけん玉をクラスで披露したり、私は毎週クッキングのクラスに参加し、子供たちとおにぎりを作ったり、お正月料理を教えたりしました。生まれたばかりのメイもクラス行事に参加させてもらうことができ、家族全員を受け入れてもらえたことがありがたかったです」(ハルミ)
カーネギーホールでピアノを演奏
「現地校は勉強ばかりという感じではなく、余裕を持って自分の好きなことや習い事に打ち込める時間がありました。わたしは5歳からピアノを続けていて、サンディエゴでは中国系の先生に教わっていました。とてもやさしい先生で、楽しくのびのびとピアノに打ち込むことができました」(マコ)
そんな環境のおかげもあり、マコはめきめきとピアノの腕を上げていった。オーディションに合格し、サンディエゴ交響楽団の子ども向けプログラムにゲストピアニストとしてステージに立ち、テレビのニュース番組に出演したこともある。

「Little Mozarts International Competitionで2年連続1位を獲得し、ウィナーズリサイタルではニューヨークのカーネギーホールで演奏しました。舞台に立つ直前までは緊張でお腹が痛くなることもありますが、毎回ステージに立った瞬間に『もう戻れない、やるしかない!』とスイッチが入るんです」(マコ)

現地校とみなと学園、ピアノ教室など、さまざまな面で活躍していたマコだったが、コロナ禍によってそれらの活動は大きく制限されることになってしまう。
後半では、コロナ禍が家族に与えた影響と、帰国後の日本での学校生活におけるマコの戸惑いについて話を聞いた。(2026年6月8日公開予定)






