9年間の海外生活で守り続けた日本人としての生き方【後半】
2026年2月9日
家族/クロスカルチャー

9年間の海外生活で守り続けた日本人としての生き方【後半】

脳科学の研究をする夫カズキと妻ミホは、アメリカ・バージニア州で3年間を過ごした後、長女マイカと次女サヤカを連れてイスラエルに引っ越す。ミホは慣れない文化や言葉の中、「日本人として子どもを育てるとは何か」を問い続け、子どもたちの言語やアイデンティティに向き合ってきた。戦争の中を生き抜き、日本へ帰国するまでの家族の軌跡を振り返る。(仮名)

(取材・執筆:武藤美稀)

外国人として、IDを持たないまま過ごした5年半

 

「海外生活には慣れているつもりでしたが、イスラエルでの生活は想像できないことばかりで、とても不安でした。いちばんの不安要素は言葉です。初めてこんなに難しいものかと思いました」

 

引っ越す前には、研究所の敷地内に住居や保育園があり、英語も通じると聞いていた。しかし、実際に生活が始まると、聞いていた話とは異なることがあまりにも多かったという。

 

「夫が研究室を開いたのですが、家族は同じ研究科で働くことができないという規則があり、またもや自分の職場探しをするはめに。アメリカでは州をまたぐ距離を毎日移動していたので、車の運転には自信があったのですが、運転の荒さや道の悪さが目立つイスラエルの街を見ると、『これはちょっと無理だな』と思いました。そこで、研究所に特例をつくってもらい、いくつか面接をした後、同じ研究所の別の研究科の脳神経科学の研究室に入って研究を続けることができました」 

イスラエル南部の砂漠での家族写真
イスラエル南部の砂漠での家族写真

一方、子どもたちの保育園は、研究所所長の国際化推進ポリシーから、外国人である私たちを優遇し、途中参加でも最優先で入園を許可してくれた。研究所の所長の『この人たちを助けよう』という言葉で、周りの人たちが優先的に動いてくれる様子は、中東地域に残る特権社会を強く感じる瞬間だった。研究所のインターナショナルオフィスやミホの職場の上司や同僚も、献身的にミホたち家族をサポートしてくれたという。しかし、彼らでも対応できない大きな壁が立ち塞がったのだ。

 

「イスラエルでは、国民はIDで全て管理されています。本当であれば、外国人でもIDを速やかに得られるように研究所がサポートをしてくれるはずだったのですが、システムが変わり、私たち家族はIDを持たずに5年半を過ごしました。子どもに予防接種を受けさせるにも、免許証の取得もクレジットカードのオンライン使用も、IDがないとスムーズに対応してくれません。外国人として生きる難しさを実感した瞬間です。イギリスでもアメリカでも経験したことがない疎外感を味わいました」

研究所の畑で大根を収穫したマイカ
研究所の畑で大根を収穫したマイカ

 

周りの外国人たちは、夫婦のどちらかがユダヤ人であったり、祖先にユダヤ人がいたり、何らかのかたちでIDを取得することができていた。完全な外国人でIDを持っていなかったのは、ミホたちの家族だけだったという。地元イスラエルの人たちは人懐っこくておせっかいで、いつも助けてくれようとするけれど、システムが受け付けないのでどうしようもない。車にガソリンを入れるにも、お店の人に事情を説明しなければならない。一つひとつのことは小さなことだったが、これらが積み重なり、ミホはとても疲弊してしまった。

 

「娘たちはよく遊び回る年齢で、怪我をすることも多く、マイカは病弱だったこともあり、小児救急の待合室で書類が揃うまで何時間も待たされたこともありました。サヤカは、歯が折れて流血している状態なのに、すぐに治療をしてもらえなかったことも。IDがないことで、医療と教育の面では非常に苦労しましたね」 

 

英語力を失わせないために奮闘した日々

研究所内の保育園に通い始めたマイカとサヤカ。クラスに英語を話せる保育士は1人いるかいないかで、日常はほぼヘブライ語だった。ミホはGoogle翻訳を使いながら保育士とやり取りをし、時にはほかの保護者に通訳を頼った。

 

「子どもたちがヘブライ語を話し始めると、『これはまずい』と焦りが出始め、私もヘブライ語の勉強をスタート。日本語を学びたい現地の人を探し、ランゲージエクスチェンジでお互いの言語を教え合いました。ヘブライ文字のアルファベットは、イスラエルに行く前に勉強していたので、スーパーマーケットで買い物する際などはあまり困ることはありませんでした」

アパートのシェルターで誕生日会を開いたとき
アパートのシェルターで誕生日会を開いたとき

「日本語と音が似ていて聞き取りやすいこともあり、娘たちのヘブライ語はメキメキと上達していきました。1年ほど経つと、マイカは英語で会話ができなくなってしまいました。最低限の英語力はキープしてほしかったので、英語を話せるベビーシッターを雇うことにしました」

 

ミホは保育園に英語を話せる保育士を増やしたかった。「英語ができる保育士がいたら、子どもは自然とバイリンガルになる」という実例を調べ上げ、文書にし、研究所に訴えかけることもした。しかし、保育士の給料が決まっていることもあり、難しいという判断が下った。ミホ自身で英語塾を開くことも考えたが、いい先生を見つけられず、思うようにうまくいかなかったという。

 

日本の文化と言葉を失ってほしくない

「イスラエルは文化的な要素が強い国で、ユダヤ教の習慣をとても大切にしています。私が仕事をすればするほど、娘たちは私たちの文化からどんどん離れていく。知らない言語で育っていく。それを目の前にしながら、どうすることもできないのがとても辛かったです。『せっかくイスラエルにいるのだから、ユニークな子どもに育ってもいいじゃないか』と地元の人に言われましたが、どんなにヘブライ語ができ、ユダヤの文化に染まっても、やっぱり私たちの子は“外国人”としか見られないことに違和感がありました」

 

イスラエルには日本語学校もなく、日本語の補習校もない。そこで、日本人の保護者たちが日本人キッズクラブを開催することに。毎月さまざまなアクティビティを用意し、ミホも研究所を使って子どもに向けた科学教室を開いた。フルーツや野菜をpH指示薬として使う実験をしたり、研究所の液体窒素とドライアイスを使って花や食べものを凍らせたり、日本だと年齢制限があるような実験を、小さな子どもからみんなで楽しむことができたという。

イスラエルの日本人キッズクラブにて科学教室の講師を務めたとき
イスラエルの日本人キッズクラブにて科学教室の講師を務めたとき

 

「特に娘たちの英語と日本語の勉強に力を入れたのは、コロナ禍で街がロックダウンになり、家で過ごす時間が増えたときです。外出できる範囲が制限される中、自転車やスクーターの練習をするなど、家族でできることも楽しみました。

コロナ前はイギリスやギリシャなどのヨーロッパに旅行をしましたが、コロナ後は、エルサレム近くの森林や星がよく見える砂漠を訪れてキャンプを楽しみました。キャンプ友達の半分は日本人の家族だったので、娘たちに日本語に触れさせる機会にもなりました」 

 

マイカはイギリス系のインターナショナルスクールに入学

ヘブライ語の小学校には行かせられないという思いと、2年生からはユダヤ教典の授業が始まることもあり、マイカをインターナショナルスクールに通わせることに決めた。英国統治時代から続く、幼稚園から高校3年生まで各学年1クラス25人ほどの小さな学校だ。

 

「決め手となったのは、キリスト教の学校だけれども、どんな人種も宗教もウェルカムだという雰囲気。それまでは完全にユダヤ文化の中にいたので、厳格なユダヤ教の食事規定をクリアしなければならず、お弁当もフルーツぐらいしか持たせられなかったんです。こちらがいくら気をつけても、少し間違えれば容赦なくとがめられてしまう始末。宗教上の理由だから仕方がないことだとはわかっているのですが、ナイフや調理器具が宗教規定に合わないためにホームパーティーで私が持参した料理に手をつけない人もいるなど、辛い思いをたくさんしてきました。そういったことが度重なり、当時は完全に疲れ切ってしまっていたんです」 

 

学校があったジャッファという都市は、さまざまな宗教を信仰する人が共存する街であり、外国語教育に力を入れていた。英語とアラビア語、ヘブライ語の授業が週に4時間ずつ行われ、マイカは多言語の中で学校生活を送った。英国式の学校ではあるものの、あらゆる宗教や人種の子ども、地元の人たちに配慮しており、さまざまな国や宗教の祝日を体験できる学校イベントなどが充実していたという。

インターナショナルスクールのイベントで、日本を代表して紹介するマイカ
インターナショナルスクールのイベントで、日本を代表して紹介するマイカ

 

「マイカは社交性が高いのですが、アラブ人の子どもたちと仲良くなるのはすごく大変でした。イスラエルに住むアラブ人は、アラブ人同士で集まる傾向があります。しかし、インターナショナルスクールで3年を過ごす中で、結局いちばん仲良くなったのはアラブ人の子。親の転勤で外国籍の生徒の出入りが多いのですが、その子はずっとクラスが一緒だったようです」

 

マイカは学校のおかげで、『ハリー・ポッター』などの本を英語で読めるようになっていった。しかし、日本語はどんどん遅れていく。戦争が始まり、現地にいた日本人の家族がどんどん日本に帰ってしまったため、日本語を勉強するモチベーションがなくなってしまったのだ。

 

イスラエルでの戦争体験。そして帰国へ 

 

「私たちはレホボトという都市に住んでいました。ガザからのミサイルは届いてしまいますが、テルアビブのように狙われすぎず、比較的安全な場所でした。しかし、コロナ禍が終わると、小さな戦争が勃発。学校が10日間ほど休みになり、エルサレムにある、夫の同僚の小さなアパートに避難させてもらいました。ガザからミサイルが飛来してきて、子どもたちが学校に行けなくなるということが何回か続きました」

 

2023年10月7日、ハマスによるイスラエルの奇襲攻撃が発生した。コロナ禍が明け、国全体が解放感に包まれていた矢先の出来事だった。

 

何時間もサイレンが鳴り止まない状況の中、アパートの住民たちと地下のシェルターで半日を過ごした。外では迎撃の音が鳴り響き、1週間に3発ほど着弾したような音が聞こえ、ついに家族は日本への一時帰国を決める。研究所からは、同僚や保育園の家族が亡くなったという知らせのメールが届いた。ラボの大学院生も軍から招集された。4カ月後にイスラエルに戻ったが、その後もガザ、レバノン、イエメン、イランからのミサイル攻撃が続いた。

 

「娘たちの方が、常にシェルターの位置を意識していました。外出するときも、逃げ道を確認してから動く。そんな生活が日常になっていました。シャワーをしていたときにサイレンが鳴ると、バスタオル姿でシェルターに走りました。車で40分の通学中にサイレンが鳴ったときは、道路わきに車を寄せ、車から降りて身を伏せました。ドンドンドーンと大きな音がして、上空でミサイルが迎撃された跡が飛行機雲のように見えました」 

対ハマス戦争中のホームパーティー。ユダヤ祝日のハヌカのお祝いで、蠟燭(ハヌキヤ)を灯している 
戦争中、学校が休みになった子どもたちのためにシェルター内で日本のアニメ映画を上映した
戦争中、学校が休みになった子どもたちのためにシェルター内で日本のアニメ映画を上映した

 

この一連の出来事をきっかけに、日本への帰国を考えたミホは、就職活動を開始。2025年4月に熊本の大学に内定をもらった。2025年6月12日、イスラエルからイランへの先制攻撃が始まり、その翌日にイランからの弾道ミサイルがレホボトに着弾。研究所は直撃を受け、15ほどの研究室が全てを失った。隣の建物にあったミホの職場も、爆風の影響で、窓枠は落ち、窓ガラスがすべて割れるほどの大きな被害を受けた。

 

イスラエルで研究を続けるカズキを残し、ミホは2025年8月、マイカとサヤカを連れて帰国した。   

 

日本帰国後の生活と子どもたちの適応力  

現在、マイカは熊本の公立小学校に通っている。漢字の習得には苦労しているものの、自分のペースで学習に取り組んでいる。

 

2026年4月に熊本大学附属小学校が国際クラスを開設することになり、マイカは編入、サヤカは1年生として入学することが決まった。日本語を中心に学びながら、英語も生かせる環境で教育を受けられる。

 

「この9年間で、娘たちは何度も国や学校が変わりましたが、その度に素晴らしい適応能力を見せてくれました。これまでに身につけたスキルやアイデンティティを大切にしながら、これからは安定した環境で彼女たちの成長を見守っていきたいと思っています」 

2025年4月のヨルダン旅行の家族写真
2025年4月のヨルダン旅行の家族写真

 

最後にミホは、9年間に及ぶ海外生活を振り返り、こんなふうに語った。

 

「海外生活を通じて、自分が『骨まで日本人』であることを実感しました。子どもたちに日本の文化や食事を伝えることを心がけ、自分たちで紫蘇や大根、小松菜を栽培したり、納豆やもやしをキッチンで自作したりするなどの工夫をしていました。 ニュースで見聞きするイスラエルとは全く違う、現地で暮らす人たちの生の声や生き様を知り、そして、生と死が隣り合ったような経験をしました。人前でも涙あり、ハグあり、困ったときは文字通り土足で上がって助け合う地元の人々の温かさにも触れました。戦争や、世界からのバッシングが徐々に人々の笑顔を奪っていきました。私たちには帰る場所がありますが、そこで生き続けるしかない方々のたくましさを間近で見たことは、子どもたちと一緒に得た、かけがえのない経験だったと思います」