日系の建設会社に勤務する父・真哉と母・美和の夫妻は、長女・美咲、次女・知夏と一緒に3度の海外駐在生活を経験する。イギリス・ウェールズで1年間、アメリカ・アトランタで3年間、インドネシア・ジャカルタで3年間の海外生活を子どもたちは常に前向きに楽しんだという。現在、真哉がジャカルタ、美和が日本、美咲がニューヨーク、知夏がオーストラリアと違う都市で暮らすグローバルな一家に、計7年間の海外駐在生活において、家族で何を体験し、何を得たのか詳しく聞いた。(仮名)
(取材・執筆:ミニマル丸茂健一)
温かく受け入れられたカーディフでの海外新生活
2008年、父・真哉に海外赴任の辞令が下る。当時、長女・美咲は小学校5年生、次女・知夏は幼稚園の年中の歳だった。赴任先は、ウェールズの首都で最大都市のカーディフ。イギリス赴任と聞いていた母・美和は、カーディフと聞いて「どこ?」というのが第一印象だったという。
「ウェールズのカーディフということで、とにかく学校などの情報がまったくないという不安はありました。ただ、もともと国内でも転勤族だったので、どうにかなると思っていました。夫は小学校高学年の頃、親の転勤で、家族でニューヨークの片田舎に2年間住んでいた経験があったので、『最初の1カ月は何を言っているかまったくわからないけれど、3カ月すると少しずつ話せるようになり、半年もすれば言いたいことが言えるようになって、1年後にはすっかり慣れるようになるから、心配することはない』と言っていました。それを聞いていたので、子どもたちも特に不安は感じなかったようです」(美和)
カーディフで住んでいたのは、テラスハウスのような集合住宅の一画だった。近所の人たちは、「英語が話せない外国人と会うのは初めてだ」と興味を持ってくれたという。実際、近所の子どもたちは、美咲・知夏と毎日のように遊んでくれて、とてもウェルカムな雰囲気に助けられたという。お隣に住む家族が、引越直後で家の中が殺風景だろうと花束を持って来てくれたりするなど、ウェールズの日常には、日本とは違う時間が流れていた。
美和は当時の生活をこう語る。
「子どもたちに対してだけでなく、近所の方からお茶に呼ばれたり、レモンカードの作り方を教えてもらったり……現地の人は皆さん親切でした。当時、初めての海外生活でしたし、英語も上手ではありませんでしたが、『知り合いに誘われたら極力行く』ということを心がけて、できる限り現地生活を楽しみました。」(美和)
海外生活で気になることといえば食事だ。2008年時点のカーディフには、日本食材店がなかったが、日本から持ち込んだ醤油や味噌と、カーディフ大学近くで唯一見つけたアジア食材店で米などを買い、現地で入手できる食材を和食にして楽しんだという。
「家では基本的に日本食を作っていました。ただ、スーパーで売っている食材は、日本とはまったく違っていましたね。例えば、肉は薄いスライスがなくて、ブロックしか売っていなかったり、餃子の皮もありませんでした。そこで小麦粉を練って家族一緒に皮から作るなど、手に入るもので工夫する必要がありました。手に入れるのが不自由な中、現地の食材で日本食をつくるという普段とは違う経験ができたのは楽しかったです」(美和)
英語ができないという不安を抱えたままの新生活スタートだったが、子どもたちは親の想像以上にスムーズに現地のコミュニティに溶け込んでいった。子どもたちが通ったのは、カーディフの現地校。知夏は、9月にReceptionに入学するとすぐにクリスマス劇のナレーションの一人に任され、英語での会話に自信をつけていく。一方、美咲もYear-5に編入。アニメなど日本のカルチャーに興味がある友達がすぐにでき、学校生活を楽しんでいたという。
「当時、知夏のクラスで、共有アイテムであるぬいぐるみを週末にどこかに連れて行き、写真を撮り、後日Show&Tellをするという宿題があって……。家族でロンドンに行って、ぬいぐるみと一緒に観光し、様々な写真を撮ったのをよく覚えています。ほかにもクラスの小学校のイベントには保護者もよく呼ばれて、夫が日本を紹介したりしていましたね」(美和)
アトランタで美咲は新体操、知夏はチアリーディングをスタート
1年間のカーディフ駐在は、本格的な海外赴任の布石のようなものだった。2009年に帰国すると今度は、2011年から2014年まで、アメリカ・アトランタでの駐在生活が始まる。長女の美咲は中学1年生、次女の知夏は小学校2年生になる歳。ここでも子どもたちは英語オンリーの現地校に通う選択をした。
知夏は、日本に帰国した2年間で残念ながらすっかり英語を忘れていたので、無理をせずに学年を1つ下げて、現地の小学2年生のクラスに通うことに。一方、美咲は、英語を“それなりに”覚えていたので、ESLに通いながら、現地の中学1年生のクラスに編入した。
「日本の中学校で新体操部に入っていた美咲は、新天地のアトランタに日本人の新体操の先生がいることを知り、姉妹そろって習い始めました。ここから現地のネットワークが広がり、知夏は補習校の友達の紹介でチアリーディングを始めることになりました。知夏はチアリーディングを通じて、アメリカのカルチャーを体験として覚えていきました。試合では、近隣のさまざまな都市へ行き、チアの仲間との絆を深めていました。アメリカは車社会なので、時には片道8時間くらいかけてフロリダの試合会場まで連れて行く事もありました」(美和)
ジョージア州の州都であるアトランタは、カーディフとは規模の違う都市だ。日本食材スーパーもあれば、日本人の医師がいる病院もある。それでも海外生活で何らかの不安がありそうなものだが、一家はここでも現地生活を楽しんだ。母の美和も子どもたちの学校ボランティアに参加し、知り合いの輪を広げた。休暇には、米国の大自然を子供たちに見せたいと、イエローストーンやグランドキャニオンなどの国立公園、また巨大なフロリダでのリゾートで家族の思い出をつくったという。
アトランタの現地校には、日本人はほかにおらず、アジア系といえば、インド、中国、韓国出身の生徒が多かった。美咲はそんな現地校の環境に順応し、仲間を増やしていく。特に数学オリンピックのクラブで学校代表の一員に選ばれるなどして、「数学ができる日本人の子」として自信をつけていったという。「中学受験がこんなところで役に立った」と美咲は喜んでいた。
楽しかったアトランタ生活だったが、2014年に真哉の勤務先の辞令によって帰国することに。このとき、美咲は高校1年生、知夏は小学5年生だった。美咲は、中学1年生で入学した私立の中高一貫校に戻った。一方、知夏は帰国後、すぐに中学受験の準備をすることに。インターナショナルスクールなど、さまざまな選択肢があったが、帰国生が多く通っている私立中学校を受験することにした。
「知夏はチアリーディングを頑張っていたので、帰国後も同じような環境で続けさせてあげたいと思っていました。そこで、フロリダのチアリーディングの大会で知り合った日本人の指導者を訪ね、クラブチームに加入し、日本でもチアを続けられるようになりました。チアを頑張りながら受験勉強も頑張り、小学6年の12月の帰国生枠で無事私立中学に入学出来ることになりました。知夏はすっかり欧米のカルチャーに馴染んでいたので、帰国生が多い進学先の中学はいい選択だったと思っています」(美和)
3年のアトランタ生活を終え、家族は日本に帰国した。
後編では、帰国3年後に渡ったジャカルタでの生活を追っていく(2024年7月8日公開予定)