2024年7月8日
家族/クロスカルチャー

家族4人でポジティブに乗り切った計7年の海外生活【後半】

日系の建設会社に勤務する父・真哉と母・美和の夫妻は、長女・美咲、次女・知夏と一緒に3度の海外駐在生活を経験する。イギリス・ウェールズで1年間、アメリカ・アトランタで3年間の生活を経て、3度目の海外赴任で訪れたのは、インドネシアのジャカルタ。発展著しいアジアの大都市で現地のインターナショナルスクールに通った知夏は将来につながる学びのテーマと出合う。 

(取材・執筆:ミニマル丸茂健一)

 

インドネシア・ジャカルタで3度目の駐在生活

しばし日本での生活を送っていた一家に、再び海外駐在の辞令が下りる。次の駐在先はインドネシアの首都ジャカルタ。2017年から2020年まで、発展著しいアジアの大都市での新生活が始まる。

 

このとき美咲は、大学入学のタイミングだった。すでに日本の大学で国際政治を学ぶ道を決めており、ひとり日本に残ることになる。一方、好奇心旺盛の知夏は、「新しい場所・文化に触れてみたい」と今回も乗り気。ジャカルタでは、主にアメリカ式の教育を行うインターナショナルスクールに編入した。

ジャカルタ市内 日曜日の歩行者天国で
ジャカルタ市内 日曜日の歩行者天国で

「インターナショナルスクールなので、授業は英語オンリーです。アトランタの現地校に通じるカルチャーだったので、知夏の溶け込みは親が思うより早く、私たちは安堵しました。学校には様々な国の子が通っていてオーストラリア人やイギリス人の子もいるし、ヒジャブ(イスラム教の女性が身につけているスカーフ)を被っているインドネシアの子もいました。ラマダン(イスラム教の断食期間)のときは、イスラム教の生徒だけ食事をしないし、水泳の授業も見学していました。それをみんなが自然に受け入れています。知夏はそんな環境で学んでいました」(美和) 

家族で世界遺産ボロブドゥール寺院遺跡群を訪れたときの様子
家族で世界遺産ボロブドゥール寺院遺跡群を訪れたときの様子

アジアの大都市と聞き、美和は最初少しだけ不安を感じた。  

 

治安は大丈夫か? 車やバイクが多く、大気汚染がひどいという話も聞いていた。しかし、ジャカルタに住んでみるとその勢いに驚かされた。街には近代的なビルが建ちならび、経済がめざましく発展している。滞在中の2018年には、アジア競技大会(Asian Games)が開催され、翌2019年には、日本企業も多大な尽力をした地下鉄が開通した。そこには日本とは違う活気があった。

 

ボランティア活動の経験が将来の道を決めるきっかけに

スマトラ島の特別支援学校でのボランティアの様子
スマトラ島の特別支援学校でのボランティアの様子

ジャカルタのインターナショナルスクールでは、ボランティア活動が盛んだった。知夏は、修学旅行でスマトラ島の特別支援学校を訪れ、子どもたちと遊ぶボランティアを経験する。さらに、ジャカルタに避難してきた難民の子どもたちのための学習センターでのボランティア活動で、将来の道を決める出合いをする。

 

「ジャカルタには、バングラデシュなどから逃れてきた難民の子どもたちが通う学習センターがあります。インドネシアは難民条約に加入しておらず、定住・就労が認められないので、最終的にオーストラリアなど英語圏の第三国に受け入れてもらう道を探ることになります。そのため、この学習センターで英語教育の支援をしているのです。私はこのボランティアで、ゼロから英語を学びはじめ、最終的に高校卒業資格を取得し、オーストラリアの大学に進学した難民の生徒の話を聞き、英語教育の重要性と影響力を再認識しました。そこで、英語教授法を勉強して、将来は国際機関で、英語教育を通じて難民支援をするという夢ができました」(知夏)

美和が参加したPTAのボランティア活動。上段中央は校長先生
美和が参加したPTAのボランティア活動。上段中央は校長先生

ボランティアに熱心なのは、保護者も同様だった。美和もインターナショナルスクールのPTAのボランティア活動に参加。日本人コミュニティのイベントにも積極的に参加し、現地ネットワークを広げて行った。ボランティア活動に熱心だった知夏は、学校のVarsity Danceチームにも加入し、東南アジア内で提携しているインターナショナルスクールの発表会に遠征に行っていたという。

知夏は高校のダンス活動でバンコクまで遠征した
知夏は高校のダンス活動でバンコクまで遠征した

ところが、ジャカルタでの現地生活は、急に終わりを告げる。2020年初に発生した新型コロナウイルスの蔓延は、インドネシアにも及び、父・真哉を残して家族は日本への帰国を余儀なくされた。その時点では、知夏は高校卒業までジャカルタのインターナショナルスクールに通うつもりでいた。しかし、コロナ禍で先行きも見えず、日本帰国後、ジャカルタへ戻ることは諦める。

 

帰国後、知夏は日本の高校のインターナショナルコースに編入する。そこは、海外の大学への進学を目指す生徒が多数おり、知夏も刺激を受けた。しかし、海外の大学の学費は、日本の比ではないほど高い……。そこで、海外留学の奨学金を申請したものの残念ながら取得は叶わず、結局、日本の大学に進学することに。

 

気持ちを切り替えて、日本の大学生活をスタートした知夏だったが、事態は急変する。日本の大学入学後の夏に、補欠繰り上がりで奨学金を受けられることになったのだ。やはり海外の大学で英語教授法を学びたい。その気持ちは確かなもので、一念発起して、オーストラリアの大学を受験。はじめて家族と離れて寮生活をすることになった。

 

「私は初めて海外に住んだウェールズでは英語がまったくできませんでしたが、フォニックスを学ぶなかで少しずつ話せるようになりました。その後、アメリカでは友達と話すことでスピーキング力を鍛え、毎日日記を書くことで、ライティング力を養いました。さらにインドネシアのインターナショナルスクールでプレゼンテーション力を高めました。3つの国で英語教育を受けるという特別な経験をしたことで、私は年齢やバックグラウンドの異なる英語学習者の気持ちに寄り添えると思っています。現在はオーストラリアの大学で、第二言語習得の教育法を学んでいます。ジャカルタでのボランティア経験が、英語教育を通じて難民支援をするという夢の実現へのモチベーションになっています」(知夏)

 

それぞれの道に進んでいく

知夏が通った高校のミュージカルの様子。生徒の多様性がよくわかる
知夏が通った高校のミュージカルの様子。生徒の多様性がよくわかる

計7年に及ぶ家族での海外生活で、辛い場面もあったと思うが、美和は「本当に苦労したことが思い出せない」と笑う。思い出すと、カーディフで通った小学校の先生が子どもたちを気持ちよく受け入れてくれたことで、スムーズな海外生活がスタートできた。車社会のアメリカでは、自然と家族で一緒に行動する時間が増え、家族の距離が縮まった。美和自身もPTAのボランティア活動などに参加するなかで、海外のカルチャーを学ぶ楽しさを覚えたという。

 

「その土地、その土地で、子どもたちにできることを精一杯やってきただけですが、それが何より大切だと今は思います。知夏はアメリカ滞在中にチアリーディングを始め、今もオーストラリアの大学で続けています。美咲は現在、駐在員としてニューヨークで働いています。夫は今もジャカルタに駐在していますし、私は日本。海外駐在という機会を得たことで、家族の世界が大きく広がったと思っています」(美和)