2024年1月29日
文芸入賞作品

海外子女文芸作品コンクール・文部科学省大臣(奨励)賞をふり返る(2003年度)

作文 

笑顔


北東イングランド補習授業校(イギリス)
中3 今井 絢
 

 暑い。暑い。暑い。
 めずらしく太陽が憎かった、ある6月の午後。冷たい飲み物を買ってきてくれるはずの、友達の帰りが遅いのが、少し気にかかっていた。
 私が住むニューカッスルは、結構な田舎であるにも関わらず、1歩街に出るとしょっちゅう人であふれかえっている。特に、今日のような初夏の土曜日なんかは、まるで夏のセール初日のような騒がしさだ。
 太陽の光と人の多さのせいで、汗がそれこそ滝のように流れ出ていた。私は掌で顔をあおりながら、刺すような日差しをさけてもっと涼しい所へ避難しなければ、と少し歩き回ることにした。周辺をうろうろしていると、木陰にころよいベンチがあったため、そこで足を休めること決めた。
 「…When I find my self in times of trouble…」
 腰を下ろすとともに、聞き覚えのある歌が聞こえてきた。ベンチから5メートル程はなれた所で、ストリートミュージシャンが、ビートルズの「Let it be」をギターで演奏し始めたところだった。
 ストリートミュージシャンには、少なくともお金を払う、というのが英人の鉄則である。人の多い街中で何か芸をしよう、というのだから、それなりの度胸と勇気が必要だ。それに対して敬意を示そう、という考えがあるのだと思う。
 見てみれば、演奏し始めて間もないのに、ギタリストの前に置かれた帽子の中に、次々とコインが投げ入れられていく。その度に彼は、歌うのを止めて「Thank you」とか
 「Cheers」
などと、お礼を言うのだった。
 ギターもなかなかのものだったし、歌もそれなりに上手い。加えて「Let it be」はどちらかと言うと、好きな曲である。私はポケットに手を突っ込んで、20ペンスを探し当てると、それを帽子の中に入れようと立ち上がった。……が、やめた。
 理由は、「犬」だった。ミュージシャンから1店離れた場所に、ホームレスの男性とその飼い犬がうずくまっていたのだが、その犬が突然立ち上がり、ミュージシャンに向かって歩き出したのだ。私は、これから何が起こるのか興味がないわけではなかったので、ベンチに戻って見物することにした。
 犬とギタリストの距離がほんの少しに縮まったとき、彼はある行動に出た。なんと、右足で自分のバックの中を探り、ビスケットを1枚引っ張り出して、犬の方によこしたのだ。思わず「えっ?」と声を出してしまった。驚いている私とは裏腹に、彼は何事もなかったかのように歌を歌い続けている。犬は、といえば、それが当たり前だというかのように、ビスケットを口に挟み自分の主人の元へと駆けて行ってしまった。
 ただ1人、私と同じように、この出来事について驚きを隠せなかった人といえば、ホームレスの男性だけであった。犬の口に挟まったビスケットと、気持ちよさそうに「Let it be」を演奏するミュージシャンとを交互に見つめとまどっているようだった。しかし、何か思い付いたのか、自分の後ろに置いてあった小さな鞄をごそごそし始めた。
 「今日は、変わった行動を取る人を、本当によく見る日だなぁ。」
私は、そう呟く。
 男性は、鉛筆と紙切れを1枚取り出すと、それになにかを書きなぐっていた。
 私以外に、このトンチンカンな光景を見ている人はいないだろうか。そう思いながら、きょろきょろしてみたが、それらしき人物は見当たらない。人ごみは、普段通り軽やかに流れていっている。そして、風は普段通りに、私の髪をなびかせていた。
 もう1度、ホームレス男性に目を移してみると、これまた変なことをしている最中だった。さっきまでビスケットが入っていた犬の口の中に、今度は紙切れを入れさせ、しきりにそれに向かって話しかけているのだ。犬は自分の飼い主をちらっと見たかと思うと、またまたミュージシャンの方へと走っていった。
 「なんなんだろう…」
 私は、あの紙切れの中に、何が書かれているのか知りたかった。同時に、ミュージシャンが紙切れに目を通したときにどんなリアクションをするのか少し楽しみでもあった。
 ビートルズの名曲は、もうすぐ終わりを迎えようとしていた。そこへ、あの犬がとことこ近づいていく。
 「Let it be,Let it be,Let it be,Let it be……」
そう歌うギタリストの目線が、犬のくわえた紙に移った。すると、まるで宝くじに当選した子供のように、目を真ん丸くすると、彼は犬のやってきた方向に顔を向けた。私もそれにならうと、ホームレス男性のやさしい笑顔が目に入った。顔はやせてはいたけど、絵本に出てくるサンタクロースの微笑みにそっくりな笑顔。それに答えるかのように、ストリートミュージシャンの顔もうれしそうにほころんでいた。そして、いつの間にか私の顔も……。
 こもれびと、心地の良い歌と、やさしい笑顔と。なんとなく心が温かくなった。
 結局、あの紙切れの中身は、知らず終に終わってしまった。けれども、きっとミュージシャンにとって、心からうれしく思えることが書いてあったのだと思う。その証拠に、彼が歌った最後の言葉、「Let it be」が、一層伸びやかに聞こえた。
 ストリートミュージシャンとホームレス男性。この2人のように、小さな親切や小さな幸せを、なんのためらいもなく素直にわたすことができるって、素晴らしい。あんなに気持ちのいい笑顔も、そんなことができるから、生まれてくるものなのかもしれない。私も「小さな幸せ運び屋」に、なりたいと強く思う。誰かに、あんなふうに笑ってもらえたら、最高だろうなぁ……。
 友達が、ミネラルウォーターのボトルを2本抱えて、やっと戻ってきた。
 「遅くなってごめん!お店がすごく混んでいてね。これでも結構急いだつもり!」
少しばかり温くなった水を受け取ると、気持ちが安らぐ感じがした。私達はベンチで5分ほど話しをすると、そこを離れることにした。
 腰をあげると私は、
 「あ、そう、そう。」
と、し忘れていたことがあるのに気が付いた。
 友達にちょっとの間待ってもらい、今度は 
 「MAMAMIA!」を歌っているギタリストに向かって歩いて行く。さっき握り締めていた20ペンスにもう10ペンスを足して、帽子の中に投げ入れた。快い声が返ってきた。
 「Thank you!」
 また顔が、ほころんでいた。