子どもたちの人間的な成長を支えた4年9か月のパリ生活【前編】
2024年10月15日
家族/クロスカルチャー

子どもたちの人間的な成長を支えた4年9カ月のパリ生活【前編】

金融系企業に勤務するタカシと妻のマイは、長男ケイタ、次男ユウタと共にフランス・パリで49カ月に及ぶ駐在生活を経験した。通学する学校の選択肢は現地校、インターナショナルスクール、日本人学校の3択。英語圏ではないヨーロッパの都市という環境で、ファミリーはどのような判断をしたのか。また、子どもたちは、現地でどのように友達の輪を広げ、何を学んだのか。子どもたちが小学校から中学校に上げる重要な時期に経験した長期に渡るパリ駐在生活について詳しく聞いた。(仮名)

(取材・執筆:ミニマル丸茂健一)

 

30代後半でもう海外駐在はないものだと思っていた

 

花の都パリ——誰もが憧れるヨーロッパを代表するこの都市には、常時3万人以上の日本人が在住している。現地では日本語の情報誌も入手でき、日本人コミュニティも形成されている。そんなパリでの駐在を夫のタカシが言い渡されたのは、2009年のこと。急な辞令に妻のマイも驚いたという。

パリの象徴エッフェル塔を背景に
パリの象徴エッフェル塔を背景に

「私はもともと海外旅行が好きで、学生時代はアメリカ、ヨーロッパ、アジアなどを訪れた経験があります。それもあって、海外駐在が決まれば、家族で同行するつもりでいました。ただ、夫は当時38歳で、それまで海外での勤務経験はありませんでした。なので、海外はもうないと思っていたんです。そこに急転直下の海外勤務が決まり、しかも場所はパリ——。驚きましたが、子どもにとってもいい経験になると思って、前向きに受け止めました」(マイ)

 

海外駐在が決まった当時、長男のケイタは小学校4年生、次男のユウタは小学校3年生だった。現地での生活にそれほど不安は感じなかったというマイだが、やはり学校のことは気になった。夫の勤務先から編入学に関するサポートも特にないなか、インターネットを駆使して、学校情報を調べたという。

家族旅行でフランスのコート・デュ・ローヌ地方に。シャトーヌフ・デュ・パプのドメーヌを見学
家族旅行でフランスのコート・デュ・ローヌ地方に。シャトーヌフ・デュ・パプのドメーヌを見学

パリには、1970年代に設立された「日仏文化学院パリ日本人学校」があり、多くの駐在員の子女たちがここで学んできた歴史がある。さらに、英語で授業を受けられるインターナショナルスクールほか、フランスの現地校という選択肢もある。

 

それぞれのメリット・デメリットを調べたかったマイだが、当時まだまだインターネットは一般的ではなく、日本人学校やインターナショナルスクールの情報も限られていた。妻子より半年前にパリ入りしたタカシも自分の新生活を成立させるのに精一杯で、なかなか学校の詳しい情報は得られない……。慣れないフランス語での新生活にも一抹の不安があり、気持ちは日本人学校に傾いていく。

 

「まず、現地校という選択肢が外れました。私もフランス語ができないので、学校との対応に自信がありませんでした。そこで、日本人学校とインター(ナショナルスクール)の2択になり、最終的に日本語でスタートして、慣れたらインターに通うのがいいのではないかという結論になりました。当時、小学生だった子どもたちにも相談し、本人たちもそれを希望しました」(マイ)

 

 

パリに引っ越して2週間後にまさかのトラブル発生!

マイと子どもたちがフランス入りし、パリでの新生活がスタートしたのは、20096月。ここから49カ月にわたる海外駐在生活が続いていくことになる。タカシが勤務する会社から提供されたのは、16区トロカデロ周辺のアパルトマン(日本の感覚ではマンション)。あまり日本人が多く住んでいないエリアだったという。100㎡を超える広い部屋で始まった夢の新生活だったが、ファミリーはいきなり予期せぬトラブルに見舞われる。

パリのアパルトマンは100㎡を超える快適な環境だったが……
パリのアパルトマンは100㎡を超える快適な環境だったが……

「パリに引っ越して、2週間後に空き巣に入られたんです……。本当にびっくりしました。住んでいたアパルトマンは、決して古いわけではなく、玄関はオートロックで、エレベートもコード式だったんです。それなのに、ドリルでドアは壊されて、押し入られるという……。しかも学校まで子どもを迎えに行っている小1時間の間の犯行でした。鉢合わせしなかったのが不幸中の幸いですが、もう何がなんだかわからなかったですね。海外生活の洗礼でした」

 

入居して間もなかったため、家具を買いそろえる前だったが、貴金属やバッグなどが持ち去られた。なかには、母からもらった大事なジュエリーもあったという。日本で生活していると疎くなりがちだが、ヨーロッパの大都市ではスリや引ったくり、空き巣などの犯罪は日常茶飯事だ。特にパリはエリアによって注意が必要と言われている。ただし、昼間からドリルを使った大胆な犯行はまれで、プロの常習犯だったのではないかと警察から説明を受けたという。

 

それ以外でもフランスでの生活は日本のようにはいかなかった。まず、公共交通機関はストですぐに止まる、郵便はまともに届かない、エレベータはよく止まる……などなど、予定通りものごとが進まないことに慣れるまで時間がかかったという。

 

さらに、生活面では、英語を話す人がほとんどいない。2009年当時、まだスマートフォンも一般的ではなかったので、電子辞書片手にスーパーに出かけては、2時間かけてフランス語と格闘しながら買い物をしていたとマイは振り返る。

 

「フランスは英語の併記がないので、スーパーでも書いてあることがわからない……。今ではスマホをかざして翻訳できるアプリもありますが、当時はそれもなかったので、私も子どもたちと一緒にフランス語の語学学校に通って勉強しました。最終的に日本に帰国する頃には、かなりフランス語を理解できるようになりましたね」(マイ)

 

 

現地で兄はサッカーチーム、弟は野球チームに所属

波乱の幕開けだったパリ生活だったが、母子ともに次第に現地のリズムに慣れていった。当時、ケイタは小学校4年生、ユウタは小学校3年生で、ともに日仏文化学院パリ日本人学校に無事入学できた。フランスの現地校の入学は9月だが、こちらは日本と同じ4月から新学期スタート。入学は書類のみで、スムーズに同じ学年に入ることができた。

 

日本人学校とはいえ、さまざまなバックグラウンドを持つ子どもたちを受け入れているだけに、服装や持ち物は自由が基本。ランドセルで登校してもいいし、バックパックでもいい。持ち物にも制限はなく、指定された教材は、保護者が指定の書店まで買いに行くこともあった。一方で、運動会や各種発表会、クリスマス会など、日本の学校と同様のイベントもあり、子どもたちは自然に学校に馴染むことができたという。

日本人学校の運動会の様子
日本人学校の運動会の様子

「子どもたちは毎朝730分に家を出て、送迎バスで学校に向かいます。そして、昼過ぎまで授業を受けて、午後3時くらいに帰宅します。その後、子どもたちは各自、習いごとをしたりしていましたね。この送り迎えの際に日本人学校のママ友からさまざまな現地情報を教えてもらうことができました」(マイ)

ケイタは日本人コーチのいるサッカーチームに所属
ケイタは日本人コーチのいるサッカーチームに所属

子どもたちは、現地で日本人学校に通いながら、フランス語教室のほか、週末にはスポーツも楽しんだ。ケイタは日本人コーチのいるサッカーチームに所属し、ユウタは野球チームにも入った。週末の送り迎えは、スポーツ好きのタカシの仕事だった。日本で勤務している頃は、週末も何かと忙しかったタカシだが、駐在生活では余裕があり、子どもたちとスポーツを楽しむ貴重な時間を過ごせたという。

ユウタは現地の野球チームで活躍
ユウタは現地の野球チームで活躍

「サッカーチームの遠征で、フランスの都市ブレストを訪れることができたのは楽しかったですね。オランダまで遠征して、野球の試合をしたこともあります。また、家族でヨーロッパを旅したのもいい思い出です。イギリス、ドイツ、ベルギー、チェコ……車でイタリアを一周したり、フィンランドでオーロラを見たりもしました。また、フランスを代表する冬のリゾート、シャモニーでスキーをしたのも忘れられません。フランスでは、週末は家族と過ごすのが当たり前。フランス駐在生活のおかげで、家族が一丸になれた気がします」(マイ)

サッカーチームの遠征でヨーロッパ各地へ
サッカーチームの遠征でヨーロッパ各地へ

 

後編では、中学校から現地インターナショナルスクールへ通った兄弟、マイのフランス生活をリポートする。最後に兄弟に当時のことを振り返ってもらった。20241111日公開予定)