アフリカの発展を、アフリカの若い人たちの手で  沼 志帆子さん
2024年6月6日

アフリカの発展を、アフリカの若い人たちの手で 沼 志帆子さん

沼さんは、あしなが育英会で「アフリカ遺児高等教育支援100年構想」に携わっている。アフリカ49カ国出身の優秀な学生が日本を含む海外の大学に進学し、いずれはアフリカに戻ってアフリカの発展に貢献するリーダーになれるよう支援するプロジェクトだ。 小学校6年生から大学卒業までドイツとアメリカで暮らした沼さんが、どうしてアフリカに関わり続けてきたのだろうか。 

(取材・執筆:髙田和子)

 

■大学卒業後、西アフリカにあるニジェールに行かれたのですね。日本と欧米で暮らしてきた沼さんが、新しい環境に飛び込むのには勇気がいりませんでしたか? アフリカに行こうと思ったのはどうしてですか。

 

小学校5年生を終えてドイツに行ったとき、ドイツ語も英語も分からないままインターナショナルスクールに放り込まれました。さらに高校はアメリカの現地校に通いました。欧米とアフリカでは環境が違いますが、小さいときから異文化に放り込まれていたので、その点で順応性は育ったと思います。

学生時代のルームメイトと
学生時代のルームメイトと

ニューヨークの高校にいたころ、スラム街の経済的に困難な子どもたちをサポートするサマーキャンプで初めてボランティアをしました。その後ボストン大学で心理学と社会学を学びましたが、ボストンも移民が多く、やはり同じようにボランティア活動をしていました。その経験から「社会貢献がしたい」と思うようになりました。

 

そんな時、アフリカのやせ細った子どもたちの報道を目にしたのです。実際には見たことがないので現実味がありませんでした。それで、「アフリカに行きたい」と思ったのです。アフリカに行く手段を探していたら青年海外協力隊に出合いました。

学生時代、毎年夏休みにNYのスラム街の子どもたちのためのサマーキャンプでカウンセラーとしてアルバイトしていた。その時、担当してた子どもたちと一緒に
学生時代、毎年夏休みにNYのスラム街の子どもたちのためのサマーキャンプでカウンセラーとしてアルバイトしていた。その時、担当してた子どもたちと一緒に

 

■ニジェールではどのような仕事をしていたのですか。人々の暮らしでどんなことに驚きましたか。

 

ドッソという地方都市で学校に行ってない子どもたちを対象に識字教室を開いたり、現地の学校を訪問して日本の遊びや日本文化を紹介したり、ほかの青少年活動隊員と協力して日本祭りを開いたりしました。  

 

ニジェールは5分の4が砂漠地帯で気温が高く、4月、5月は家の中では寝られないのです。そういう時は家の外に簡易ベッドを出して、蚊帳を釣って、風を受けながら寝ました。停電や断水は日常茶飯事でした。

 

感染症とも隣り合わせで、昨日まで元気だった人が亡くなったり、貧困で栄養が足りず、小さな子どもが亡くなったり……。同じ敷地に住んでいた私より若い女性は妊娠している時から状況が悪かったので栄養のあるものをあげていたのですが、生まれた双子のうち一人が栄養失調の状態で亡くなりました。 ニジェールは5歳未満の子どもの死亡率はとても高いです※。そんな現実を実際に目の当たりしていました。

 

ニジェールでは娯楽はないのでお茶を飲みながらおしゃべりするのが日常でした。そういうのがとても楽しかったですね。皆気持ちの良い人たちで、その意味では楽しい2年間でした。 

 

帰る時は、「今回は新卒で何もできなかったけど、力をつけて必ずまた来よう」と思いました。  

 

※2021年の5歳未満の子どもの死亡率1位はニジェールで115.20人/千人

 

ニジェールでのガルディアン一家。沼さんが抱っこしている双子の一人が亡くなってしまった
ニジェールでのガルディアン一家。沼さんが抱っこしている双子の一人が亡くなってしまった

 

■帰国後、「あしなが育英会」に就職されたのですね。どのような活動をされているのですか。  

 

「あしなが育英会」は、親を亡くした子どもたちや親が重度の障がいで働けない家庭の子どもたちを奨学金や教育支援、心のケアなどで支える民間非営利団体です。2000年頃から国内だけでなくアフリカの子どもたちの支援もするようになりました。  

 

私は2006年、ウガンダ出身の最初の留学生が日本に来るタイミングで採用されました。  

 

あしなが育英会がウガンダに建設した「あしながレインボーハウス」では、心のケア活動に加えて、読み、書き、計算を教える「テラコヤ教室」を開いているのですが、私は2009年から4年間、そこの現地代表をしていました。職員のメインはウガンダ人です。 

 

■ウガンダはどんな環境でしたか。そして、そこでどんなことを考えましたか。

 

首都・カンパラに近いナンサナという所に住んでいました。ウガンダは、気候はよくて住みやすいです。常に21~23度くらいで日本の秋や春という感じで、緑も多く、食べ物も美味しい。その頃はもう携帯電話もあったし、スーパーも市場もあるのでなんでも買えました。停電は日常茶飯事ですが。  

 

ただ、施設の責任者だったので、ウガンダ政府との折衝などが大変でした。また、レインボーハウスに来る子どもたちやスタッフ、日本から来た研修生たちがマラリアなどの感染症にかからないようにや、盗難や交通事故に遣わないようになど、と命を守ることにも気を配りました。私の移動手段は車ですが、歩く時は気を張って歩いていました。  

 

テラコヤを休みがちだった男の子がいたのですが、その子は家族がいなくて祖母と暮らしていたのです。その祖母からネグレクトされていて、実際には物置小屋みたいなところに一人で暮らしていました。ご飯もろくに与えてもらえない。それで小遣い稼ぎしていたことがわかりました。小遣い稼ぎというのは水道や電気のない家庭のために井戸に水を汲みに行って運んだり、電気がひけていない家のために薪を集めたりするのです。ごみをあさってメタルをみつけて業者に売ることもしていました。一日働いてお芋がちょっと買える程度の収入です。  

 

朝、テラコヤの先生と一緒に彼を訪ねて話をしました。そういうことを何回もやるうちに、すごく悩みました。私はいずれウガンダを去る身だし、養子にする覚悟もない。この子のために自分は何ができるのか、何をするべきなのか、と。ほんとに考え抜いて自分の限界を思い知らされました。結果的にその子はテラコヤに来なくなりました。頭のいい子だったのですけどね。  

 

「アフリカの若い人たちの手でアフリカを変えることをサポートする」それしかできない。アフリカに死ぬまでいるということはできない、と思い知りました。 

ウガンダの「テラコヤ」事業の生徒たち。3列目真ん中が沼さん
ウガンダの「テラコヤ」事業の生徒たち。3列目真ん中が沼さん

 

■その思いが「アフリカ遺児高等教育支援100年構想」に結びつくのですね。  

 

「100年構想」は、あしなが育英会の会長玉井義臣がウガンダの子ども達のエネルギーと可能性を感じて思いついたのですが、私もこの男の子との経験があって賛同しました。その気持ちを忘れないように男の子の写真をそばに置いています。  

 

留学生の中には大学に通いながらリモートで現地のために活動している学生もいます。素晴らしい若者達です。将来、彼らの中から、どこかの国の大統領が生まれるのではないか、と期待しています。  

 

■沼さんはお子さんを3人育てながらお仕事されていますね。アフリカはもちろん日本でも女性が子育てしながらキャリアを積むのは難しいと思いますが。  

 

アフリカの国々はまだまだ男尊女卑の国が少なくなく、100年構想では留学生の男女の比率を半々にするため、女性をターゲットにプロモーションをしています。そうしないと女性は少なくなりますから。  

 

私は子どもを3人育てながら大好きな仕事をできるのは幸せだと思っています。  

 

最近、BCMA認定キャリアメンター®という資格を取りました。「あしなが育英会」の仕事と並行して、子育てや介護などのライフイベントがあっても女性たちが自分らしくキャリアを積んでいけるようなサポートをしています。 

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